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マンガ半生記(完全版) Profile in English 山崎拓との一問一答 経歴詳細 講談Movie半生記 マンガ半生記(ダイジェスト版)
山崎拓との一問一答
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政治を目指した原点は、郷土・福岡にあるのでしょうか?
A.
【山崎】一九三六(昭和一一)年に中国・大連市で生まれたのですが、その後すぐに上海に移りまして、四歳のときに帰国しました。幼稚園から高校を出るまで福岡で育ちましたので、故郷はやはり福岡です。
自分としては深い郷土愛というものを覚えていまして、週末に必ず福岡に帰る習慣を持っているのは、単に選挙のためだけではなく、一種の帰巣本能が働いているんじゃないかと思うくらいです。
私が卒業した修猷館高校は、広田弘毅、中野正剛、緒方竹虎など非常に有力な政治家を輩出しました。私が政治家の道を進むようになったのは、知らず知らずのうちに「国のために私心を捨てて尽くせ」という、偉大な先輩たちが築いた伝統精神を受け継ぎたいという志向が身についたからだと考えています。
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Q.
「博多っ子」拓少年は、どんな子どもだったんでしょうか?
A.
【山崎】子どもの頃はたいへんなガキ大将で、戦争ごっこばかりやってまして、よく喧嘩をしたり乱暴なことをしたりしていたんです。
しかし、小学校三年のときに片目を失明してしまったんです。喧嘩して窓ガラスが割れたものだから、それを片づけていたとき、私が壊したガラスが上から落ちてきて目に刺さったんです。この話はあまりしたくないんですけどね。
Q.
片目が見えなくなったというのは、相当なショックだったのでは……。
A.
【山崎】人生観、変わりましたね。
それ以来臆病になりまして、ものすごく慎重な少年に変わりました。
とにかく、遠近感がなくなったんですよね。今は経験則でだいたい距離がわかるんですが。遠近感は両目の目線を結んで距離を測るわけですから、小学生のときは野球下手だったんです。球が捕れなかった。親父が心配して暇さえあればキャッチボールの相手をしてくれた思い出があります。それと、打ってもちゃんとバットに当たらないんですよ。今でも、日曜日に地元福岡でソフトボールをしていますが、真芯にはなかなか当たらない。ゴルフの球はさらに小さいから、めったに当たらない。シャクにさわるからゴルフはやりません。
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Q.
しかし、そうしたハンディにもかかわらず、柔道はずいぶん強くなられたと聞いています。
A.
【山崎】親父が臆病になった私を見るに見かねて、柔道の町道場に入れたんです。中学一年のときです。それからは柔道に熱中しましてね。特に高校、大学二年ぐらいまでは夢中になって柔道をやったんですよ。
それで、高校時代にどんどん成績が落ちていくものですから、親父が心配しまして、これじゃ、大学進学もおぼつかないと。親父は一高・東大卒でしたから、(私が)東大に行くのが当たり前だと思ってたんですね。
親父は担任の先生から「とても東大なんて、そんなわけにはいきません」と言われて、「もう柔道をやめろ」と……。自分で勧めておきながらですよ(笑)。やめて東京へ転校しろと。
「こんな田舎で柔道ばっかりやってたら進学が大変だ」と親父は言ったんですが、私はすでに修猷館高校の柔道部の主将になっていましたから、「そんな勝手なことはできない、馬鹿なこと言わないでくれ」と抵抗したんです。
そのとき、親父は仕事の関係もあって東京へ引越しをするので、私や姉妹を連れて行こうとしたわけです。ちょうど高校二年生の秋でしたが、私は一人で福岡に残りました。
Q.
今の山崎さんを彷彿させますね。
A.
【山崎】中学から一〇年間柔道をやりまして、修猷館高校の二年生の夏からキャプテンになりましたから、責任も感じたんですね。部員が一〇〇人もいたものですから、とてもやりがいを感じて柔道部の運営に当たったわけです。
その後、早稲田大学に進んで、当然、柔道部に入ったところが、高校日本選手権をとった男が同期におりまして。三宅倫三という男ですが、当時私は六〇キロで彼は一二〇キロですからね。体重が倍あるわけです。その頃は体重別ではなく、オール無差別でしたから、今の軽量級と重量級の差があったわけです。彼とはもちろん高校時代に試合をしたことがなかったんで、こんな強い男が世の中におったかとたまげました(笑)。
それでも一年生のときは五月に二段になり、一一月に三段になったんです。九州の初段というのはレベルが高いんですよ。もともと二段半ぐらいあったんでしょうね。その頃までは調子よく、柔よく剛を制すなんて言ってたんですが、二年生、三年生になるとだんだん差がついてきまして……。私は絶望しましたね。私の柔道じゃ飯は食えないということをはじめて思い知ったわけです(笑)。
とてもこんな世界におっては芽は出せんぞということで、方向転換を模索するようになりました。柔道三昧というのはやめたわけです。柔道部で合宿している連中でまじめに授業を受けにいく奴はあまりいなかったんですが、私は授業を休まず、ほぼ全優。二年生以降は授業料免除の「大隈奨学生」でした。
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Q.
山崎さんがサラリーマンをやっていたということは、案外知られていませんが。
A.
【山崎】祖父が炭鉱経営をしていたので、その後継ぎになるつもりで私は商学部にいきました。ところが、炭鉱が学生時代に銀行管理になってしまったので、やむなくサラリーマンになることにしたんです。
たまたまブリヂストンが故郷出生の会社で、親父の友人が重役をやっておられたんですが、その方がひょこっと家に遊びにこられたとき、就職試験を受けないかと言われて受験し入社することになったんです。
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Q.
若い頃の海外派遣がきっかけで政治に開眼したとか。
A.
【山崎】姉が海外行きを志望していまして、内閣総理府主催で皇太子御成婚記念の青年海外派遣事業に申し込もうとしたんですが、年齢制限に引っかかってだめだと言われ、代わりに私の名前を書いて帰ったんです。試験を受けてみたら、なんと合格。
ところが、期間が三カ月。サラリーマンになって四年目のことでしたが、もちろん試験を受けたことも会社には内緒でした。
Q.
よく会社が行かせてくれましたね。
A.
【山崎】人事部長は、新入社員の分際でそんなことするならクビだって言って怒った。当時、私はタイヤの販売代理店の監督みたいな仕事をしていましたから、三カ月もいなくなるなんてあり得ないことなんです。
そこで一計を案じましてね、ブリヂストンの親戚筋で、当時の法務大臣だった石井光次郎先生のところへ知人の紹介で行ったんです。法務大臣室で「何だね」って、目薬差しながら私に言われた。内心無礼な方だと思ったんで、忘れられない光景なんです(笑)。
Q.
頼みごとにいって無礼なとは、無礼なのはいったいどっちか(笑)。
A.
【山崎】そこで、事の顛末を話しましたら、目の前で電話してくれたんです。ブリヂストンのたぶん、社長だったと思うんですけれど。
帰ったら、今度は上司の課長がものすごく怒ってまして……。若僧のくせに政治力を使うなんてけしからんと怒鳴られたんです。お前のおかげで俺がクビになりかねない、とっとと行ってこいと(笑)。
Q.
その旅で見たものは?
A.
【山崎】船で東南アジアを回りまして、寄港したのは香港、サイゴン、シンガポール、ボンベイ、コロンボ、スエズ運河。それが一カ月の船旅。そのあとマルセイユに上陸して、欧州八カ国を二カ月間。
その旅を通じて、私は東南アジアの圧倒的貧困とヨーロッパの先進性を目の当たりにしました。一九六二年(昭和三七年)ですから日本は中進国まできていましたが、ヨーロッパに比べればまだまだ貧しい。特に社会資本の差が大きかった。この落差は、ひとえに政治のあり方の差によるのではないかと。
国づくりをするならやっぱり政治家になって取り組むべしという気概を持ったんです。そのときはじめて。ただし、本当になれるとは思ってなかったですね。自分の身内には政治家が一人もいなかったし。
帰ってきたら、海外部に配置換えになっていました。まもなくハンブルグ支店転勤の話が出た。海外勤務になったら最後、もう日本には帰ってこれないと思いました。問題児の私を国外で塩漬けにするに違いない、と。ハンブルグは当時のヨーロッパの拠点都市、しかも貿易の拠点でしたから、憧れは持っていたんですけれども。
ちょうどその頃、祖父が経営していた炭鉱がついに閉山になって、後始末をしなければならないのに身内の責任者がいない。私も会社を辞めるいいチャンスと思って、福岡に帰ったわけです。結局、サラリーマン生活を約五年間送って独立したんです。
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Q.
当時は高度経済成長時代で、一流会社のハンブルグ支店勤務といえば花のエリート・サラリーマンの道だったんでしょうが、何か自分でやってみたいという気持ちが強かったんですね。炭鉱閉山の後始末がすんでからは?
A.
【山崎】炭鉱債務の整理が終わると、シュウマイ屋を始めました。横浜のシュウマイ屋に親戚がいまして、横浜楽陽軒というのをやってたんです。その人からノウハウをもらって、博多楽陽軒というのを始めたわけです。
自宅隣りの小さな工場で家内なんかが毎日シュウマイを製造してました。ものすごくおいしいやつを必死になってつくってるんですが、おいしさ優先ですからコストが掛かり過ぎて儲からない。
ですが、有力デパートにも卸しましたし、動物園とかあらゆるところで売ったんです。そういう得意先を開拓するのはうまかったんです。どことでも話がつくんですよ。
平和台球場の販売権も取ったんですが、当時西鉄ライオンズが没落していましてね、客が入らないんです。一番弱いときでした。三〇〇〇人ぐらいしか入らない。稲尾とか豊田とか中西とかがいた全盛時代が終わっていた頃です。
最近、平和台球場を取り壊すことになったときに、そこを借りてフィナーレ記念のソフトボール大会をやったんです。私はピッチャー。観客席を見上げて、あそこで三〇年ぐらい前にシュウマイ売っとったなぁと、感慨無量でしたよ。今のダイエー・ホークスは福岡ドームに観客が五万人入る。今なら大儲けしてますよ(笑)。
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Q.
それからどのように政治の道を進むことになったのですか?
A.
【山崎】炭鉱は潰れたし、シュウマイ屋もうまくいかない。友人たちから、「そんなことやってても、お前は武家の商法でダメだ。子どもの頃から人の面倒を見ることが得意だったから、政治家になったらどうだ」と……。
いきなり代議士になれという奴と、市会議員から出発しろという奴と両方いたんです。じゃあ、中をとって県会議員でいこうと(笑)。
とにかく友だちがいっぱい集まりまして、お金を使わずに当選しました。完全な理想選挙で、買収、供応、いっさいなし。みんな若い者で街を練り歩いてました。随所で街頭演説をやって、それが受けましてね。マスコミは、たぶん次点ぐらいだろうというふうに見ていましたけれど、蓋を開けてみたらビックリするほど取りましたよ。二万九〇〇〇余票で一位当選。全国を調べたら、驚いたことに一番の得票数。
私のような、地盤・看板・鞄、いわゆる三バンのどれも持たない若い三〇歳の青年が選挙に出るなんて、当時の常識では考えられなかったことのようですが。
Q.
国政に挑戦
A.
【山崎】県議一期目の途中、二年八カ月目に、当時新派閥を結成されたばかりの中曽根康弘先生から声がかかって、衆議院選挙に立候補しました。無所属・非公認の戦いで、勢いでやったんですが、惨敗しました。
その後の浪人生活三年間は、とにかく選挙運動三昧でね。飲まず食わずでしたよ。
Q.
三年間もよく続きましたね。どうやって生活していたんですか?
A.
【【山崎】友だちの義援金ですよ。一〇〇円募金をしてくれましてね。友だちがみんなポケットの中に募金手帳を入れて、選挙運動をかねて一〇〇円ずつ集めて回るんです。山崎拓に一〇〇円カンパしてくれと。こいつは理想に燃えているが苦労しているからと……。たいがい一〇〇円と言うと出してくれたようです。そんな奇特な青年がいるのかと。
三年後に、二回目の選挙を迎えましたが、また自民党が公認してくれなかった。ところが、運よく私は三六歳の誕生日、一九七二(昭和四七)年一二月一一日に当選したんです。意気軒昂としましてね。「無党派・無派閥でいく」と一旦は豪語したんですが、中曽根康弘先生から電話が入って、「そんなこと言ったって一匹狼じゃどうにもならん。どこかに属して、活動の場を与えてもらわないと何のために当選したのかわからないぞ」と言われましてね。二週間ぐらい抵抗したんですけれど、田中角栄総理大臣(当時)から呼び出しがかかりましたので、そろそろ潮時かなというわけで、のこのこ出向いたんですよ。
そうすると、自民党総裁室で私の手を握って「君が当選することは、はじめからわかっていた」とおっしゃる。その台詞、今もって忘れられませんよ。私はムッとしましてね、はじめからわかってるなら、なんで公認しなかったんだと思いましたよ。しかも、公認証書と公認料をくれたんです。選挙が終わって二週間もたって公認料もへちまもないじゃないですか。まあ、本当は助かったんですが(笑)。公認証書までくれて。角栄流ですよ。日付を見たら、投票日の前日になってました(笑)。
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Q.
政界に入ってから影響を受けた政治家は?
A.
【山崎】中曽根康弘、山中貞則、渡辺美智雄、この三人の政治家の薫陶を受けたということは間違いありません。影響もそれぞれ受けていると思います。
中曽根先生は、当代随一の雄弁家で、読書量の多さからくる該博な知識と、難解な思想をわかりやすく表現する卓越した才能をお持ちです。特に外交戦略にかけては出色の政治家であられると思います。
中曽根内閣で官房副長官を務めたときには、たびたび外遊にお供しまして、当時のレーガン米大統領、ゴルバチョフソ連書記長、サッチャー英首相、コール西独首相、ミッテラン仏大統領、ガンジーインド首相ら、そうそうたる各国首脳との会談に同席させていただきました。そのなかで、修羅場で対応するときの判断力・応用力、そして外交舞台での胆力の大切さを間近に学ばせていただいたことは得難い貴重な経験でした。
山中先生の忘れられない思い出は、初挑戦で落選の苦杯を嘗めた後、次の選挙でも公認がとれなかったときのことです。非公認候補なので自民党議員の誰も表立っては応援に来られない状況のなか、山中先生は堂々と後援会大会に出席してくださり、「山崎拓は俺が責任をもって育てる。いつか緒方竹虎先生のような大器にする」と言い切ってくださいました。
今回の独立の際も「矢でも鉄砲でも持ってこい。俺が一人で守ってやる」とまでおっしゃっていただきました。まったく頭が上がりません。
山中先生のすごさは、党人派でありながら、官僚出身議員が足元にも寄れないほど政策通であることです。特に税制、農政、独禁政策、沖縄問題などでは他の追随を許さぬ第一人者であり、政策万般にわたって精通しておられます。しかも押しも強く、今も党総務会で議論紛糾した場合、必ず一家言もって事態の収拾を図ってくださる大御所でもあります。
Q.
故・渡辺ミッチーさんとの師弟関係は特によく知られていましたが。
A.
【【山崎】渡辺先生は人の心をつかむことに非常に優れていて、人並み外れた面倒見のよさを常に示されていましたね。
また、経済を見る目が独特で、景気の見通しなどに非常に鋭い勘を持っておられた。自ら実体経済学と称しておられたが、行商の経験からもきていると思います。先生の経験主義と豊富な経験に基づく直感力に感化されましたね。人間的なスケールの大きさという点でも私は到底追いつけない感じです。
渡辺先生とは同じ議員宿舎に住んでいたんですが、夜は先生の部屋に自然と同僚議員が集まってきました。私は似たような境遇から国会議員になったこともあって、特に可愛がっていただいてまして、たとえ一二時を過ぎても帰りを待っていてくださるんです。先生手作りの酒の肴をつまみながら大いに飲んで、議論を戦わせたものです。
ただ渡辺先生は、「栄える国は必ず滅びる。その滅びるまでの時間をどれだけ延ばすかだ」と、いつも口癖のようにおっしゃられていた。私は永遠の国家の繁栄を築くのが政治の理想であり責任ではないかという考え方を持っていて、その点だけは先生とちょっと違うかなとも感じていました。
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Q.
一九七三年、渡辺美智雄、石原慎太郎、中川一郎氏らを中心に「青嵐会」が結成され、反共主義を柱にタカ派の論陣を張りました。これに参加したのは?
A.
【山崎】渡辺美智雄先生に誘われて入ったんですが、入会式のときに血判を押させられたのには参りました。
私はタカ派の頭目のように言われてますが、実際はハト派なんです。子どもの頃は好戦的でしたが、片目を失明してからはハト派体質に変わったんですね。戦っちゃいかん、危険だと。命を取られない限り、戦わずに平和裏に話をつけたほうがいい、という哲学を身につけましたから。
「青嵐会」入会直後に金大中氏拉致事件が起きました。ところが「金大中のごとき共産主義者は殺されてしかるべきだ」という趣旨の演説があって、私はあきれました。我々は自由民主党じゃないかと。自由民主主義者なんだから、共産党が街頭で共産主義の思想を流布宣伝する自由というものを命がけで守ってやるのが自由民主主義者の神髄じゃないかと。共産主義者は海に放り込んでフカに食わせろなんていう話は聞くに堪えないと。これはダメだと思ってやめたわけです。
そうしましたら渡辺先生が非常に心配しましてね。君ね、これは血盟集団なんだと。血盟してできたばかりじゃないかと。それが君のせいで早くも壊れたとなると、俺の責任になる(笑)。そんなら俺に休会届けを預けろと。それを俺はしばらく握り潰しているから、お前は退会したと言え……大政治家ですからいろいろ便法を考えたんですね。それで公式の取り扱いは休会になり、やがて自然退会になったんです。
その金大中さんですが、現在ついに韓国大統領になっておられる。感無量です。
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Q.
自民党は一九九三年に野党に転落しましたが、その教訓は何でしょうか。
A.
【山崎】本当に貴重な経験であったと思います。
あのときの政治がもたらした意義はいろいろあると思いますが、私個人としては、わずか一年でしたけれども、やはり政権を失ったことの厳しさというのを、いやというほど感じましたね。
私も焦って、親しかった細川護煕首相(当時)と渡辺美智雄先生との会談を設定して保守合同を画策したりしましたが、うまくいかなかった。
一方、そのときに党を割った人が非常に多かったわけですが、私自身の愛党の精神はそれまでよりもその経験を通じて深くなった感じがするんです。
ただ、今の自民党には、野党経験で学んだものが必ずしも生かされていない。少し(野党時代が)短か過ぎたかなという思いがします。それは、同僚の皆さんが必ずしも愛党の精神に基づいた行動をしているとは思えない節があるからです。いかなるときでも自由民主党をよくするために、という意識が充分でないという感じがします。
もっと真摯に国民の批判を受け止めて体質改善すべきではないでしょうか。そのためにも、政策集団がどんどん政策ビジョンを打ち出していくべきです。
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Q.
その一年後、自民党は村山富市首相をかついで、自・社・さ(自民・社民・さきがけ三党)政権をつくり、政調会長を三期・三年間務められましたね。そのときの収穫は?
A.
【山崎】その意義は、一つは自民党が再び政権に復帰したということ。それは是非を問わず我々自民党員としては画期的なことだったと思うのです。もう少し野党の立場が続けば自民党は自壊したかもしれません。
もう一つは当時の社会党の基本政策の大転換が行なわれたということです。その結果、安全保障政策において国論の分裂をなくすことができたという点で非常に大きい意義があった。日米安保条約を否定する勢力が極小化したという非常に大きな意味があったんです。
もう一つ、あえて三つ目を挙げるならば、粘り強い話し合いの政治を行ない、意見の違いが埋まるまで徹底的な議論を三党間で行なったことです。せっかくそういう経験を積んだのに、今ちょっとそういう面が欠けていると思いますね。
私は政調会長として三党調整に臨みましたが、徹底した対話、討論によって必ず結論が出るということを学んだと思います。繰り返しになりますが、政治家としては「どんなに意見が対立してもあきらめずに徹底した議論を行なえば必ず結論が出る」という信念を持つことが必要です。
逆に言えば、結論のない政治をやっては駄目だという政治信条を身につけたとも言えると思います。
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Q.
離合集散が世の習いの政界で、YKK(山崎拓・加藤紘一・小泉純一郎)コンビはなぜ続いているのでしょう。
A.
【山崎】出発点は、同期の桜であるということ。それから、各々の属した派閥における役回りが常に同じようなものだったということからくる利害関係の一致もあったと思います。
生き馬の目を抜くような政界で友情など存在し得ない、と言われるなかで、私たちくらいは利害打算を超えた友情を示すことができたら、それは一つの理想であると、常に三人が三人とも心掛けていると思います。立場が変わることはあるかもしれませんが、喧嘩別れをしたり、友情が壊れるようなことはないという気がします。
三人で夜会えば、政治以外の話もしますし、ときどき歌も歌いますが、ほとんど政治談義に時間を費やすことが多いですね。他の人と会ったときは政治談義をわざと避けるんですが、YKKのときは趣味と実益を兼ねているんでしょうが、もっぱら政治の話。
珍しいケースではないかと思います。お互いにどんな立場になっても、三人寄れば文殊の知恵という関係がこれからもずっと続いていくと思います。
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Q.
三人は、よきライバル関係でもあるわけですね。
A.
【山崎】加藤さんはなかなかの戦略家で、大局観に優れています。私は彼の政治判断を信頼していますし、彼も私の意見をよく聞いてくれます。
それから、互いに裏切らないようにしていますから絶対に嘘を言わない、つまり脚色抜きで正確に話すようにしているんですね。それでさらに信頼関係が深まるのです。
一番最初に私が友情を感じましたのは、当選二期目ぐらいだったと思います。某新聞が将来性のある若手政治家を取り上げる連載をして、加藤紘一も私も登場したんですが、それぞれ自らの将来のライバルを書く欄があって、加藤紘一が山崎拓と書いてくれたんです。すでに彼はサラブレッド的な存在だったんですよ。血筋・毛並みもいいし、年金の官民格差論議などで名を上げて、同期中で最も有望株。その加藤さんが、まったく自分と対照的な私を、つまり、官僚出身でもなく、二世でもなく、官学出身でもなく、体育会系で……。あらゆる意味で逆であるにもかかわらず、こいつがライバルだと、こう言ってくれたわけです。そのとき以来、一貫して彼の友情のかけがえのなさを感じています。

【山崎】小泉さんには二面ありまして、一面は奇才ということ。前回の総裁選挙で彼が小渕現総理と戦ったとき、田中真紀子氏から「変人」と言われましたが、凡庸な考えではなく、思い切った着眼と行動を行なう人です。郵政三事業の民営化論は彼だからこそ打ち出せた。大衆的に人気を博する魅力を持った政治家だと思います。私にはないスター性を持っている(笑)。
一方において非常に保守的なところがあって、故福田赴夫先生に私淑していまして、その伝統を守ろうという面があります。やや一匹狼的ではあるが、YKKになくてはならない貴重な人材です。
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Q.
三人の盟友関係というのは自民党の歴史のなかでも特筆すべきものだと思われますが、近い将来YKK同士でトップを目指して戦うこともあるかもしれません。政策の違いはないのでしょうか。
A.
【山崎】たとえば、憲法についての考え方の違いがあると思います。 加藤さんは憲法全体については改革すべき点がたくさんあると考えているようですが、現行憲法の平和主義の理念を非常に大切に考えているという点にリベラルだと言われる所以があると思います。特に学生時代に安保闘争を経験したことが彼の原体験になっていると感じます。憲法改正を急いでいない。
一方、私の安全保障についての理念は、自らの国は自らの手で守るということ。同盟国としての責任を果たすということ。それから国際的には、国連の役割を評価して、国際平和のために積極的な物的貢献や人的貢献ができる体制をつくる必要があり、そのために憲法九条の改正を考えています。ただし、まず改正ありき、ではありません。国民がどうしたいのか、その合意形成が先決です。
小泉さんの憲法論は、まだはっきり聞いたことはないですが、少なくとも憲法の解釈を変えるやり方で集団的自衛権を認めることには反対しています。認めたいなら正々堂々と憲法を改正すべきだと主張しています。
ただ、自由民主党に籍を置いている間は、三人のなかで誰が政権を担うことになろうと全面的に協力すべきだと思いますし、仮に私が政権を担うことがあれば、彼らも私の方針に一致協力してくれると思います。そういう関係でいいと思います。自由民主主義自体を否定するわけではありませんから。
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Q.
座右の銘は何でしょうか?
A.
【山崎】「可能性を信じる」ということをモットーにしていますね。可能性が少しでもあると見たら、必ず挑戦するんですよ。
  私の少年時代は、明日死ぬかもしれないという戦争中ですから、空襲で福岡市も町中焼けただれました。家の周りにどんどん爆弾が落ちてくるし、私の家にも焼夷弾が落ちたけれど不発弾で助かりました。翌朝出歩いたら焼死体がごろごろしていた……。刹那的というか、明日をも知れぬ命、という原体験を持っています。目を怪我したこともそうですし、何が明日起こるかわからないと。
たった一回きりの人生。だから、この人生を一番有意義に送る方法は何か、そのためにチャンスがあれば必ずやるということなのです。
私が派閥をつくったのも、自分でチャンスをつくりチャンスを活かしたのです。もちろんかけがえのない同志の存在があったればこそ、ですが。誰しもそんなことは不可能だと思うようなことを、私だから無謀なようでもやってしまうところがあるんです。
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Q.
なぜ今回、山崎派(近未来政治研究会)を結成するチャンスだったのですか?
A.
【山崎】この時期を選んだのは、私の政治家としての直感です。苦境に立ったときこそ、反転攻勢に出る。うしろに下がっては駄目だ。これは長い間の柔道生活を通じて身につけたことで、政治にも生かしています。相手の攻勢にただちに反撃することを柔道では「後の先」と言いますが、昨年(一九九八年)の参議院選挙大敗の直後、動乱期の今ここでなければ、この種の機先を制するような行動はとれないと考え、まさにその時機がきたと。
Q.
そんなに急がなくても、もう少し我慢していれば古巣の旧渡辺派を譲ってもらえたのでは……。
A.
【山崎】私ももう還暦を過ぎて、第一線の政治家としての寿命はあと一〇年ほどしかない。ここまでがむしゃらに進んできましたが、あと一〇年をどうやって過ごすか……。
国家国民のために何をやるべきかをはっきりさせ、強力に実行していくためには、今から政策集団のリーダーとして独立をし、総理総裁を目指す道を自ら切り拓いていかねばならない。これから先ダラダラとやっていくくらいなら辞めたほうがいいという気持ちがあり、イチかバチか、伸るか反るかということで勝負に出たのです。
人数が少なくて不満だったろうと言われますが、派閥の継承ではなく独立・旗揚げしたわけですし、裸一貫からスタートしてすべて自分で切り拓いてきたという自負心がありますので、今回もその一つのステップだと思って非常に満足感を覚えています。
近未来政治研究会の会長就任挨拶のとき、皆さんに次のように言いました。「高校時代に柔道部のキャプテンを務めて以来、また久しぶりでキャプテンになった。しっかりと大きな方向を見定めた舵取りで、三〇名もの同志のクルーとともに、政界の荒波を乗り越えていかなければならない。船が難破しそうになっても皆さんより先に海に飛び込んで逃げるということはもはやできない。私は船長だから船と運命を共にしますが、若い同志の行方をしっかりと見届けたいと強く願っています」と。
Q.
今の若い人たちは、寄らば大樹の陰ではないけれども、可能性を信じてチャレンジする、そんな面が少ないような気がします。なぜでしょうか。
A.
【【山崎】最近の若い人の人生観には、何となくなだらかな海に船出すればどこかの港にたどり着くとか、海図がない航海をしていても暴風圏にさらされたり船がひっくり返ることはない、というような人生観があるんじゃないかという気がしますね。
一方において、将来この船がいったいどこに行くのかという不安があって、無気力な若者が増えているということもあるでしょう。そこのところを解決するのは政治の使命だと思いますね。
そして、チャレンジ精神とともに重要なのは、フェアプレー精神にのっとった自己責任の原則です。
私の出身高校は、当時進学率九州随一の高校でしたが自由放任主義の校風。したがって、生徒はガリ勉組と運動部、文化サークル組に分かれ、おのがじし勝手気儘に学校生活を送りました。先生方もマイペースの授業でついてこようがこまいがお構いなし。生徒自身が好きなことを選択できる代わりに、自己管理が求められ、結果には自分で責任を持つよう求められていました。
家庭・学校・社会、それぞれの現場で、そういう日本人を育てられるかどうかが、教育問題のなかで一番肝心だと思います。
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Q.
目標とか目的を提示するのが政治家の使命だとすると、その使命のなかで最も大切なものは?
A.
【山崎】二一世紀の日本が世界に輝ける国であるためのキーワードとして、私は、「品格ある国家」「活力ある経済」「安心できる社会」を掲げています。そしてこれらを実現するためには、国民の活力が一番大事だと思います。
その活力をどう引き出していくかというのが政治の使命です。活力、バイタリティという言葉をキーワードとして、すべてのことに取り組むべきだと考えています。
バートランド・ラッセル卿は、近代国家と国民に必要な素養として、知性、感受性、勇気も挙げましたが、同時に何よりも活力が重要だと言いました。
個人個人が夢と生きがいを持ち、個性豊かに創意工夫し、失敗を恐れずに自分の可能性を試せるチャンスがある社会をつくりたい。
少子・高齢化が進むなかで、老後の生活や健康に安心感を持てるようにするためには、経済の活力が不可欠。女性や高齢者の活躍を後押しすることも重要です。
新しい技術を生み出し、新しいフロンティアを見出していくことが活力の源泉となるでしょう。たとえば環境問題の解決に当たっても技術力で世界をリードしていく。やはり日本が世界の先頭に立つ「科学技術創造立国」を掲げ世界に貢献していこうという気概が必要だと思います。
日本は、明治維新以来、欧米先進国を「坂の上の雲」として目指してきたわけですが、今や日本が世界中の国々の「坂の上の雲」たらんと。
では、新しい「坂の上の雲」とはどういう国なんだということですが、私は何と言っても、科学技術と知恵で世界をリードし、勤勉さやモラルの高い国民性で尊敬を集め、第一義的には経済力で国際社会に貢献できる国が理想ではないかと思います。世界から敬意と期待の念を持って遇してもらえる国家・国民を目指すべきではないかと考えています。
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Q.
なぜ二〇一〇年を目標に?
A.
【山崎】自分が政治家として責任を持てる時間帯を言ったわけです。二〇一〇年に、私は七三歳になります。第一線における政治生命はそれまでだと考えて、二〇一〇年にきちっとした目標を置き、その目標達成のために、これからの一二年間を燃焼したいという意味なのです。その間、できるだけ自らのビジョンを実現するため、政界の要路にいて頑張っていきたいと思っています。
今の政治は、当面のことに追われ過ぎています。当面、景気回復をどうやって実現するかとか、どうやって介護保険の財源を確保するかという直面する問題だけを考えるからそうなるわけです。もちろんそれらも重要ではありますが、将来、どういう国づくりをするかということを、少なくとも政策集団のリーダーは明示すべきで、そのために総裁選挙という一つの大事な舞台があると思います。
当面の景気を良くするにはどうするか、ということも大事な論争点だけれども、それよりも、今、二一世紀がスタートせんとするときに、いかなる国づくりをするのかというビジョン・コンテストをやろうではないかと呼びかけているわけです。
郷土の先達の広田弘毅先生は「自ら計らわぬ」ということを常におっしゃっていました。私も、「自ら計らわぬ」でいきます。衆目の一致するところ「今こそお前の出番だ」という要請があれば喜んでやらせていただくけれども、さもなければ何がなんでもというこだわりを持つものではないのです。
ただ、広田先生の有名な俳句に「風車風が吹くまで昼寝かな」というのがありますが、私はこれから二〇一〇年までの一二年間昼寝をするつもりはまったくありません。
自ら風を起こしていきたいと思っています。

(一九九九年五月)
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おわりに
郷土の大先達である緒方竹虎先生は、総理・総裁を目前にした六八歳で他界された。一九五六年一月、私が早大一年生のときだった。しかも東京・五反田のご自宅のすぐそばに寄宿していたので、お通夜にも駆けつけた。まさに「巨星墜つ」という衝撃だった。
それゆえ、私なりに六八歳という年齢にはこだわりがある。
最近、あるところで、この話をしたら、「六八歳で迎える二〇〇五年に、総理・総裁になれればいい」という意味に受け取られ、少し困ったことがある。自民党次期総裁選挙に打って出ると宣言しながら、すぐになる気はないのか、というわけだ。これには少し説明がいるかもしれない。
私なりの「計算」の一つに、本書にも掲げた憲法改正問題がある。予定どおり国会内に二〇〇〇年に憲法調査会が設置されれば、五年程度で一定の結論が出るだろう。二〇〇五年に総理・総裁に就任するのは、憲法改正のスタートラインにつくという意味で理想的なタイミングなのである。
もう一つは自民党内の私の政治的立場だ。一九九八年の参議院選挙後の総裁選挙で、いち早く小渕恵三氏を担ぎ出したのは私にほかならない。さらに、党内には総理・総裁の座をうかがう加藤紘一氏、森喜朗氏ら人材もそろっている。私自身は少しも慌ててもおらず、総理・総裁になれるとしても、「大器晩成型」だと自負している。
その上で、二〇一〇年には、自らの後継者を定め、政界の第一線から退くつもりでもある。


今、必要なのはビジョン論争である。
二一世紀への渡り廊下を渡り切ったとき、そこにあるのは、どんな生活空間か。バラ色の生活設計は可能なのか。愛する国の未来像はどうか。政治家は、政策を打ち出すことによって、渡り廊下の「先」の青写真を提示する責務がある。
万が一、次期衆議院選挙の結果、自民党が過半数を割れば、日本の将来に不安を引き起こすことになる。政界は、再び政局の混乱、政党の再編を招きかねない。政権与党こそ、政策論争を積極的に仕掛け、こうした事態を未然に防ぐ努力をすべきではないか。
ここ数年来の無党派層の増大という現象は軽視できない。有権者は今のどの政党の政策にも信頼を置いていないといってもいい。無党派層に対処するには、政党や政治家が原点に立ち返って魅力ある政策を打ち出し、それをめぐって論争を続けるしかないのではないか。
たとえば、少子・高齢化の進行により、社会保障費がとみに増大している。国民一人ひとりが自らの晩年を思い、先行き不安が消えない。それがひいては日本経済の沈滞を招いている。
金融不安にしても、バブル経済崩壊後の不良債権処理の遅れやビッグバンへの取り組みの遅れが惹起したという面もあるが、日本経済の漠然とした先行きの不透明感が、金融機関不滅の神話を瓦解せしめたことも事実だ。
こうした分野ごとに、新たな政策論争を起こすことで、明るい展望が開け、景気回復につながる可能性もあるのではないか。


私が率いる政策集団・近未来政治研究会は、こうした観点から、新政策を論じ、実行に移す努力をしてきた。一九九八年一二月以降、これまで外部講師を招いての勉強会を八回、メンバーによる合宿を含む勉強会を一二回開き、議論を積み重ねてきた。
今後も絶えず新しい政策を提言し続けることで、近未来政治研究会の存在意義を見出していきたい。
こうした私の思いを現時点で結実させたのが、本書『二〇一〇年 日本実現』である。単に国家と国民の夢物語や、独りよがりの政治姿勢を示したりするのではなく、あくまで愛する祖国日本が二〇一〇年までに実現しなければならない行動目標の書として位置付けた。
国民が期待しているのは、「理想」にとどまらず、常に「実現」だからである。


本書執筆に当たっては、山中貞則先生をはじめ、深谷隆司、関谷勝嗣、保岡興治、船田元、小杉隆、亀井善之、自見庄三郎、甘利明、大野功統、武部勤、木村義雄、遠藤武彦、井奥貞雄、佐藤剛男、岸本光造、稲葉大和、田野瀬良太郎、原田義昭、林幹雄、森田健作、渡辺具能、田中和徳、倉成正和、大石秀政、奥谷通、木村勉、国井正幸、畑恵、山内俊夫ら近未来政治研究会の各議員より惜しみない協力をいただいた。ここに感謝申し上げたい。
なお、巻頭の「政治宣言」は、『中央公論』誌一九九九年七月号に寄稿した論文に、若干の加筆・修正を施した上収録した。



一九九九年七月
山崎 拓
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