【第四部】 二十一世紀の民主政治

一、首相公選制を考える

【現行憲法・第五章 内閣】
第六十五条
行政権は、内閣に属する。

第六十六条
内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する。
内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。
内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ。

第六十七条
内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する。この指名は、他のすべての案件に先だつて、これを行ふ。
衆議院と参議院とが異なつた指名の議決をした場合に、法律の定めるところにより、両議院の協議会を開いても意見が一致しないとき、又は衆議院が指名の議決をした後、国会休会中の期間を除いて十日以内に、参議院が、指名の議決をしないときは、衆議院の議決を国会の議決とする。

第六十八条
内閣総理大臣は、国務大臣を任命する。但し、その過半数は、国会議員の中から選ばれなければならない。
内閣総理大臣は、任意に国務大臣を罷免することができる。

第六十九条
内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。

第七十条
内閣総理大臣が欠けたとき、又は衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集があつたときは、内閣は、総辞職をしなければならない。

第七十一条
前二条の場合には、内閣は、新たに内閣総理大臣が任命されるまで引き続きその職務を行ふ。

第七十二条
内閣総理大臣は、内閣を代表して議案を国会に提出し、一般国務及び外交関係について国会に報告し、並びに行政各部を指揮監督する。

第七十三条
内閣は、他の一般行政事務の外、左の事務を行ふ。
一、法律を誠実に執行し、国務を総理すること。
二、外交関係を処理すること。
三、条約を締結すること。但し、事前に、時宜によつては事後に、国会の承認を経ることを必要とする。
四、法律の定める基準に従ひ、官吏に関する事務を掌理すること。
五、予算を作成して国会に提出すること。
六、この憲法及び法律の規定を実施するために、政令を制定すること。但し、政令  には、特にその法律の委任がある場合を除いては、罰則を設けることができない。
七、大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を決定すること。

第七十四条
法律及び政令には、すべて主任の国務大臣が署名し、内閣総理大臣が連署することを必要とする。

第七十五条
国務大臣は、その在任中、内閣総理大臣の同意がなければ、訴追されない。但し、これがため、訴追の権利は害されない。

首相公選制必要論の背景
「ふさわしい人が首相にならない」「自分たちの声が政治に反映されない」という国民の不満が高まっている。  そして、「首相公選」が言われ始めた。  しかし、「首相公選」という言葉ばかりが先行し、それがどのような仕組みで行われ、国政の在り方や国際関係などにどう影響するのか、まだほとんど検証されていないように思う。  国会議員に対して行われたアンケートでも、半数の議員が「首相公選制」に賛同している。国民が、直接首相を選びたいという気持ちは理解できるが、国会議員の多くが十分な議論もないまま、首相公選制に賛同しているのは、よく考えてみるとおかしなことだ。  現行の議院内閣制の下では、総理大臣を選ぶことができるのは国会議員だけであることを、忘れているのではないか。したがって、国民の大半が望まないような首相が実際に選ばれるということがあれば、その首相を選んだ国会議員たちに選ぶ能力がないということになってしまう。  首相公選制に前向きな回答を寄せた議員たちの何人が、このことを認識していただろうか。  世を挙げて「首相公選制」ブームだが、このような状況の原因として次のようなことが考えられる。

(一)国民の意識とかけ離れた派閥次元あるいは連立与党間の政争で首相が決まる。
(二)派閥や政党の一部によってつくられた首相は、政権維持に汲々とし、党内や派閥の調整に没頭するのみで、国民への視点を後回しにしている印象がある。
(三)政争に明け暮れているために、政策が官僚任せになり、首相は政治的リーダーシップを発揮していない。

なぜ、このような現象が起きているのか。長い時間をかけて構築された現行の政権維持システムが、時代の変化に対応できず、自己改革が進まないからではないか。そのフラストレーションが、首相公選制を前提とした改革論につながっているように思う。  たとえば、私が所属する自民党は、長期政権を維持するなかで、所属議員の出世システムをつくりあげた。政務次官→部会長→常任委員長→大臣→党の三役(幹事長、総務会長、政調会長)という順序で、当選回数とともに階段を上っていくシステムである。これは、官庁と政党と国会の間をローテーションする非常にうまく構築された人事システムで、五五年体制下では効率良く機能した。この仕組みは、硬直化した官僚機構に似ている。  自民党の議員は、当選回数、党への貢献度、年齢、派閥の力学などを基準に、ほとんどがいつかは大臣になれた。しかし、必ずしも専門的に精通している分野の大臣になれるとは限らないため、官僚システムに依存する結果を招いた。  つまり、政治家は政策を官僚に丸投げし、短い任期をなんとか勤め終え、次のステップに進むことだけを優先させるようになってしまったのである。  中長期的視点から政策を考える姿勢を失った政治家は、国民が納得できるような明確なビジョンを示せず、目前の懸案事項を何とか処理するだけに追われ、問題の先送りを繰り返している。  もはや、これまでのシステムは機能しない。現在の政党政治では、国民のニーズに適応できなくなっている。政治の強いリーダーシップによる新しい国づくりが求められているいま、新しい政党政治を実現するにはどのような制度が適切なのだろうか。

「中身」を変える
私はこれまで、国民の閉塞感を打破し、政治に対する信頼を取り戻すためには「首相公選制」が有効ではないかという考えを示してきた。だが、よく検討してみると、現在のような議院内閣制であっても、政党政治が正常に機能していれば、国民のための政治は実現できるように思う。  亡くなった伊東正義氏が、以前、首相になるよう打診されたとき、「本の表紙だけ変えても、中身が変わらなければだめだ」と言って断ったという話は有名だ。当時はリクルート事件などで政治に対する不信感が頂点に達していた。清廉潔白なイメージの伊東氏を登場させることによって、何とか難局を乗り切りたいと願う人々がいたことは確かだ。  伊東氏の言う本の「中身」とは何か。私は政治の体質、もっとはっきり言えば自民党の体質ではないかと思う。おそらく伊東氏は、首相を変えても、党の体質を変えなければ意味がない、と言いたかったのではないか。改革を実行する覚悟もなく、政権の顔を取り替えてお茶を濁そうという人々への痛烈な批判だと、私は受け止めている。  首相を選ぶ制度を変えるだけでは、真にリーダーとしての資質を持つ政治家が活躍できるようになるとは思えない。政治システム、政党の体質そのものが変わらなければ、どのような制度をつくっても機能しないのではないか。  「首相公選制」を議論する前に、本来、強力な政治主導を実現しやすいはずの議院内閣制が、なぜその機能を発揮していないのかを検証する必要がある。  どんな制度にもメリットとデメリットがある。国民の政治に対する信頼を取り戻し、真の政治主導を実現するためには、いったいどうしたらいいのだろうか。  土台となる政党政治がしっかりしていなければ、議院内閣制は機能しないのである。

政党政治の確立
米国と英国の例を参考に、ふたつの政治形態を比べてみよう。  米国は二〇〇年かけて、現在のような大統領制度を築き上げた。大統領選挙における予備選挙や、草の根の政治参加など徹底した国民参加のための制度を整備した。このような努力の積み重ねによって政党政治を確立し、二大政党制を実現してきた。  もともと米国では議会の権力が非常に強く、大統領がリーダーシップを発揮できない状況があった。独立初期のワシントンやリンカーンなどを除けば、歴史上に名を残している大統領はほとんどいないと言われている。たとえば、第一次大戦後、ウィルソン大統領は「国際連盟」の創設を提唱したが、国際連盟そのものは一九二〇年に成立し加盟国五十数ヵ国に達したものの、米国そのものは議会の同意が得られず、ついに参加できなかった。  現在のように大統領が存在感を示すようになったのは、フランクリン・ルーズヴェルト以降だとされている。ルーズヴェルト大統領は、一九二九年の世界大恐慌からの復興のため、連邦政府の権限を強め、失業者救済の大規模な公共事業や産業の統制で経済を建て直し、社会保障制度や労働者保護制度の改革などを強いリーダーシップで進めた。  たしかに、メディアを通じて流れる米国の大統領は、颯爽としてかっこ良く、リーダーシップを発揮しているかのように見える。一九八〇年代にはどん底だった米国経済が、いまや見事に復活した姿を見せつけられ、素早い政治決断が可能に思える大統領制に、日本国民が憧れを持つ感情も理解できる。  しかし、米国では、厳格な三権分立制度の下で、議会の権限が非常に強い。実際にはイメージほど大統領のリーダーシップが発揮されているわけではない。最近の例で言えば、クリントン前大統領がどうしてもやりたかった「医療保険改革」は、議会の反対で頓挫してしまった。また、過去八年間の外交政策については、国際政治の専門家から政策が一貫していないと酷評されている。  それでも米国は大統領制の下で成功してきた。  一方、議院内閣制を採用している英国でも、サッチャー首相のような強いリーダーを生み出してきたし、「英国病」と言われた衰退期から見事によみがえった。ここでも、長い歴史に支えられた二大政党制によって、周期的に政権交代が実現している。  このような例を考えると、結局、自民党をはじめ既成政党が、国民のニーズや期待に応えられるリーダーを育てる体制になっていないことが問題なのである

首相公選制とは大統領制である
「首相公選制」の導入を推進しようとする人々は、いったいどのような制度を想定しているのだろうか。現状の政治体制のままで、首相だけを国民の直接投票による公選とする、といった安易な提案ではないはずだ。一九九六年から首相公選制を導入したイスラエルは、首相に強い政治基盤と指導力を与えて、不安定な政治状況を解決しようとしたが、現実には逆効果となり政党の乱立を招いた。世界で唯一、「首相・議会制」と呼ばれたイスラエルの首相公選制は、五年足らずで崩壊し、通常の議院内閣制に戻された。  イスラエルの失敗を見ると、慎重にならざるを得ない。議院内閣制に首相公選制を組み合わせた制度には、どうやら無理がある。  首相公選制とは、実は大統領制のことだと考えるべきだ。  首相公選制導入論を唱えている人の考え方の根底には、大統領制があるはずだが、導入後も「天皇」をある種の元首として戴く前提でいるので、大統領制とは呼ばないだけのようだ。  世界の政治制度を大きく分類すると、大統領制と議院内閣制に分かれる。  主な例で言えば、大統領制を採用しているのは米国、ロシア、韓国である。フランスの大統領制はやや変則的だ。議院内閣制を採用しているのは英国、ドイツ、イタリア、カナダ、オーストラリア、北欧諸国などである。  世界の通説では、大統領制より議院内閣制の方が、政策を遂行しやすいとされている。  議院内閣制の場合、議会で多数を取った政党の党首が首相となるので、政府が提出した法律は議会で可決されることが前提である。したがって、政府が行いたい政策は常に実行しやすいはずだ。実際、大統領制を採用している米国や韓国では、議院内閣制への移行がたびたび議論されている。  立法府と行政府、そして司法が完全に独立した正三角形を描く大統領制に比べ、議院内閣制による統治機構は、立法府と行政府が一体に近く、たとえて言えば二等辺三角形のような三権分立構造なのである。

首相公選制のメリット・デメリット
議院内閣制にしろ大統領制にしろ、政党政治が確立していることが前提である。  それでは、米国の大統領制を参考にして首相公選制のメリットとデメリットを比較してみたい。

■メリット
(一)首相が直接国民に選ばれるので、選挙結果に対し国民が責任を持ち、政治への意識が高まる
(二)首相が政争に惑わされることなく自由に人事権を行使して有能な人材を登用できる
(三)選挙区の利害に左右されず、より長期的な観点から国家戦略を策定し、推進できる
(四)職務に没頭できる期間(任期)が保証されている

■デメリット
(一)人気投票になり、首相の資質のない人物が選ばれる可能性がある
(二)政策的にも、世論迎合のポピュリズム(民衆主義)に陥る可能性がある
(三)議会との一体性が保証されないため、大きな改革が遂行しにくい
(四)米国の大統領制にならった場合、国会議員は大臣になれない。そのため、ますます選挙区優先の狭い視野しか持たない議員によって立法府が構成されるおそれがある。

この他、再三指摘してきたように、天皇制との関係がある。世襲の天皇と、直接国民が選んだ首相のいずれが元首なのかを、冷静に議論しなくてはならない。  首相公選制の下でも、天皇が国民の象徴として今後も存在しつづけ、公選された首相が政治の実権を握るという構造を維持することは可能だろう。  米国の大統領は、政治の実権を持つとともに、国民統合のシンボル的存在でもある。だからこそ、その一挙手一投足が注目される権威になりうる。その家族に対する扱いは、日本でたとえると皇族と同じように見える。言わばロイヤル・ファミリーである。  果たして、天皇制の国である日本で、擬似大統領となる公選された首相の権威をどのように保てばいいのだろうか。  いずれにせよ、第一部の「六、国民統合のシンボル」でも指摘したように、首相公選制を導入する限り、憲法に天皇を元首とする規定を設ける必要がでてくる。

二、議院内閣制の強化

政党条項の創設  
首相公選制は、直接国民が首相を選ぶのだから、国民の期待に応えられそうに思える。しかし、この制度も政党政治が機能して初めて生かされる制度であり、現状では、さまざまな問題点が残されている。  そこで、とりあえずは首相公選制導入のメリット、デメリットについて検討が完全とは言えない段階なので、まず、議院内閣制を強化することを提案したい。  日本の現状について考えてみよう。総理大臣や閣僚が時々、「その件に関しては、与党内で議論されているので結論が出るまで、発言は控える」といった奇妙な答弁をする。  議院内閣制の下では、政府と与党は一体のはずなのに、これでは政府と与党がバラバラで行動しているように聞こえる。政策への影響力が実質的に非常に強い与党幹部が発言し、法的な拘束力や責任の在り方が明確でないまま、政策決定が行われているのではないか、と国民が不信に陥るのは当然である。政策決定、執行の責任はどこにあるのか、を明確にしなければ、政党政治は機能しない。  つまり、政府と与党の二重構造を使い分けることによって、責任の所在が曖昧になっていることが問題なのである。  英国においては、与党をあらわす言葉は「government」すなわち「政府」である。議会で多数を取った政党が名実ともに政府と一体となり、すべての責任を担って政策を決定し、遂行している。本来の議院内閣制では、与党の代表者や政策責任者は与党内での役職を兼任したまま入閣し、政府の意向を与党に伝え、説得する体制をつくるのが当然の姿である。  しかし、この方式を日本の現状に合わせようとすると、与党の政策立案能力の必要性を無視してしまうことになりかねない。与党としての自民党がこれまでいいかげんな政策立案をしてきたわけではない。これまでは、幅広く全党員に開かれた侃々諤々の議論をしてきたことも事実だ。責任の所在さえしっかり明確にすれば、与党の政策決定への関与は歓迎されなければならない。  

そこで、現状の政党政治を生かすために次のことを提案する。
(一)憲法に政党条項を設ける。
(二)政党法を制定する。
(三)政党の会計・経理の透明化、政策決定の透明化、責任の所在を明確化する。

政党は、現代の議会制民主主義において欠かすことのできない地位と役割を担っている。  また、政党助成金という税金を使い、政策決定に関与し、国民の生活に重大な影響力を持つ政党を定める憲法上の規定がないことは不自然である。  したがって、まず憲法に政党に関する条項を設けることで、政党の存在意義を明確化したい。そして、その規定は政党の自由な活動を妨げることがないよう、必要最小限度の規定にとどめておきたい。  新しい憲法には、現行憲法の「結社の自由」に加え、国民の権利として自由に政党を結成することができる規定を設けるべきである。

政党法の確立
次に、政党の法的な立場を明らかにするために基本的な政党法を定める必要がある。政党の概念、政党の要件、政党の成立、政党の内部秩序等を基本とし、全体主義国家を標榜したり、民主主義を否定する政党は禁止するなどの禁止事項も設けたい。また、現在ある政党助成の根拠をおく必要もある。  そして、最も重要なことは、政党が政策決定に関与する際の責任の在り方である。事実上、政策決定に重要な役割を果たしている党の役員は、政策の決定に法的な責任を持つ規定が必要である。そして、政策決定の過程を可能な限り透明化し、国民に開かれた議論を促す義務規定も必要だ。部会・調査会、政策審議会、総務会等の議事録の作成・公開、マスコミへの公開、議事運営の明確化などを政党の規則として定めることも必要である。  税金が政党の資金として使用されるということは、政党は既に「特殊法人」または「特別な公的法人」として存在していることになる。したがって、行政改革において、公的な組織ができるだけその資金の運用等について透明化を図っている以上、政党法制定を機に政党にも監査を入れ、会計・経理の透明化を徹底するべきである。  このようにして、政党の立場を法的に明確化し、政党の政策立案能力を生かせる制度を構築したい。その上で、内閣は与党の支持の下に政策目標を掲げ、政府はそれを達成するために戦略的な総合政策を実施する。  政府だけでは取り組めない政策や中長期の課題については、与党が主導するというように、政府と与党の立場を国民にわかりやすくすれば、議院内閣制の長所を発揮させることができる。日本型の政府・与党一体化は単なる政府主導ではなく、両者の機能を十分に生かせる政治主導の制度となるだろう。

【新憲法試案・新設条文】
(政党)
第■条
全ての国民は、自由に政党を結成することができる。
政党の目的、行動および機構は、民主主義の諸原理に合致しなければならない。

首相の権限強化  
議院内閣制の根幹である首相の権限を、どのように強化すべきかを考えてみたい。  二〇〇一年一月の中央省庁再編は、内閣機能強化と一体で、それを実現するために内閣法を改正した。改正前まで、首相は閣議を主宰する議長的役目を果たしてきた。内閣の基本方針などについて、自ら発議することはあまりなかった。  本来、現行憲法は、総理大臣の発議を予定していたが、事務次官会議のお膳立ての通り閣議を進行するという慣習ができ上がっている。そこで、改正された内閣法では、首相が重要な基本方針を発議できることを明確化した。  内閣機能強化の一貫として内閣府が新設され、ここに経済財政諮問会議が置かれ、予算編成の基本方針や経済政策などの重要事項を討議することになっている。また、国会質疑での政府委員制度の廃止、副大臣・政務官制度の導入も実施され、政治主導の国家運営ができるような仕組みになった。制度上は、首相のリーダーシップが実現できる条件が、とりあえず整ったと言えるだろう。  こうした制度の改正を憲法にも盛り込んではどうか。  まず、現行憲法第六十五条の「行政権は、内閣に属する」という条文を、「行政権は、内閣総理大臣に属する」とし、同時に第六十六条三項は「内閣総理大臣は、行政権の行使について、国会に対して責任を持つ」と改正してはどうだろう。  こうすれば、いっそう首相のリーダーシップが確立できる。  たとえば、内閣が不信任された場合、解散か、総辞職かという選択を迫られる。現行では、閣僚が一人でも反対すれば、解散ができない。やはり、解散あるいは総辞職という最高の決断は、はっきりと「内閣総理大臣」の専権事項である旨を新しい憲法には明記したほうがいい。  改正のねらいは、行政権行使の最高責任者としての首相の立場を明確にし、力強いリーダーシップを発揮させることだ。強い権限を持つ首相が、政策の優先順位をつけ、その戦略性・総合性・整合性を確保できれば、政治の責任の所在が明確になり、政治への国民の関心や正しい認識も高まるのではないか。首相公選制の導入は、こうした改革の努力の行き着く先にあるべきである。  私は超党派の「首相公選制を考える国会議員の会」の会長を努めている。  それだけに一時のブームのような推進論に迎合するのではなく、冷静で徹底的な検討と国民的な合意のもとに、二、三年以内に首相公選制導入の可否を決める必要を改めて痛感している。もちろん、首相公選制は、憲法を改正しなければ導入できないことはいまさら言うまでもない。

【新憲法試案・改正条文】
(内閣)
第■条
行政権は、内閣総理大臣に属する。

第■条
内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する。
内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。
内閣総理大臣は、行政権の行使について、国会に対し責任を負う。

第■条
内閣総理大臣は、国務大臣を任命する。但し、承認を受けた閣僚の過半数は国会議員の中から選ばなくてはならない。
内閣総理大臣は、任意に国務大臣を罷免することができる。

第■条
内閣総理大臣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、内閣を総辞職しなければならない。

【新憲法試案・新設条文】※再掲。
第■条
非常事態の宣言は、法律の定めるところにより、期限を定めて内閣総理大臣が行う。

三、憲法裁判所

【現行憲法・第六章 司法】
第七十六条
すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。
特別裁判所は、これを設置することができない。行政機関は、終審として裁判を行ふことができない。
すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。

第七十七条
最高裁判所は、訴訟に関する手続、弁護士、裁判所の内部規律及び司法事務処理に関する事項について、規則を定める権限を有する。
検察官は、最高裁判所の定める規則に従はなければならない。
最高裁判所は、下級裁判所に関する規則を定める権限を、下級裁判所に委任することができる。

第七十八条
裁判官は、裁判により、心身の故障のために職務を執ることができないと決定された場合を除いては、公の弾劾によらなければ罷免されない。裁判官の懲戒処分は、行政機関がこれを行ふことはできない。

第七十九条
最高裁判所は、その長たる裁判官及び法律の定める員数のその他の裁判官でこれを構成し、その長たる裁判官以外の裁判官は、内閣でこれを任命する。
最高裁判所の裁判官の任命は、その任命後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際国民の審査に付し、その後十年を経過した後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際更に審査に付し、その後も同様とする。

前項の場合において、投票者の多数が裁判官の罷免を可とするときは、その裁判官は、罷免される。
審査に関する事項は、法律でこれを定める。
最高裁判所の裁判官は、法律の定める年齢に達したときに退官する。
最高裁判所の裁判官は、すべて定期に相当額の報酬を受ける。この報酬は、在任中、これを減額することができない。

第八十条
下級裁判所の裁判官は、最高裁判所の指名した者の名簿によつて、内閣でこれを任命する。その裁判官は、任期を十年とし、再任されることができる。但し、法律の定める年齢に達した時には退官する。
下級裁判所の裁判官は、すべて定期に相当額の報酬を受ける。この報酬は、在任中、これを減額することができない。

第八十一条
最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。

第八十二条
裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ。
裁判所が、裁判官の全員一致で、公の秩序又は善良の風俗を害する虞があると決した場合には、対審は、公開しないでこれを行ふことができる。但し、政治犯罪、出版に関する犯罪又はこの憲法第三章で保障する国民の権利が問題となつてゐる事件の対審は、常にこれを公開しなければならない。

三権分立の在り方  
統治機構の基本は、三権分立である。立法・行政・司法が、相互に牽制することによって、権力の暴走を抑え、国家を安定的に運営し、国政を適正に遂行することができる。  絶対王制の時代、英国では「代表なければ課税なし」として、君主の徴税権を議会のコントロールのもとに置いた。革命後のフランスでは、裁判所は君主に隷属するものと考えられ、議会がつくる法律こそ、人権の砦とされた。米国では、ルーズヴェルト大統領時代、ニューディール立法を裁判所が矢継ぎ早に違憲と判断して、政治部門と対立した。  三権のありようは、時代によっても国によっても異なる。しかし、どんな国家も、権力相互のチェック作用が働かなくなれば、腐敗、堕落の末路を迎える。統治機構の一つとして、その大事なチェック機能の一端を担っているのが、司法すなわち裁判所である。  現代日本において、まず、行政に対するチェックはどうか。  戦前と異なり、行政処分はすべて最終的に裁判所の審査対象となっているので、一応、司法による事後的なチェックが働いていると言うことができる。しかし、今の法令の在り方では、行政権の行使に幅広い裁量が認められているため、国民の立場からの訴訟提起は、よほどのことでなければ勝訴を見込めない傾向がある。  今後行政の在り方が事後チェック型に変わり、この四月から情報公開法も施行され、そして、ノーアクションレター(行政機関による法令解釈公表制度)のように、オープンに情報が求められる時代になってくると、行政の裁量範囲もますます幅が小さくなり、司法はむしろ、行政裁量の妥当性を積極的にチェックする方向に進むものと思う。  次に、立法権に対するチェックはどうか。  裁判所は違憲判決に極めて慎重だ。特に、最高裁判所は、主として憲法違反を審査する裁判所であるはずなのに、現実には、憲法判断と関係のない多くの個別事件の処理に忙殺されている。そのうえ、政治的な論争を引き起こしかねない課題については、統治行為論など司法的解決になじまないとの理屈で、極力、憲法判断を避けている。現にアメリカと違って、違憲判決が出たのはわずか数件しかない。  違憲審査のあり方に関してもっとも問題なのは、内閣法制局が、最高裁判所に代わって、事実上大きな権威を持ってしまっていることではないだろうか。  たとえば、憲法第九条について、最高裁判所が解釈権を事実上放棄してしまったため、もっぱら内閣法制局が述べる政府見解が、憲法の有権解釈となってしまった。「集団的自衛権は主権国家固有の権利であるが、これを行使することは、憲法第九条のもとでは認められない。」というのが、その典型的な例だ。内閣の意思決定は閣議で行われるから、政府見解の変更は、手続き上はいとも簡単にできる。  しかし、本当は、最高裁判所がチェック機構としての役割を果たすべきだ。もし、最高裁が本来の機能を発揮していれば、「解釈改憲」の繰り返しによって、憲法の重心を軽くしてしまうようなことはなかったのではないか。  これが、現憲法では認められていない憲法裁判所を、特別裁判所として設置してはどうかという、私の問題提起の出発点だ。

憲法裁判所の創設
ヨーロッパ型の憲法裁判所は、多元的な司法制度(行政裁判所、司法裁判所などに分かれる)を前提として、具体的事件と関係なく、抽象的に法律の違憲性を問う訴訟を提起することができる。そこでは、職業裁判官だけではなく、大学教授や行政官も含め、政治機関による任命も行われる。  憲法判断は憲法裁判所が独占しており、ほかの裁判所は判断できないため、ドイツやイタリアでは、具体的事件の第三審、第四審的な役割に変わりつつある。しかし、オーストリアやフランスでは、議会が採択した法律について、施行前に憲法適合性の審査をするのが大きな役目であり、国と地方公共団体や官庁間の権限争い、選挙争訟など、通常の司法裁判所では対応できない仕事をしている。  違憲立法審査は、立法府に対して、司法がノーということである。しかし、国民に選ばれた国会議員による意思決定を覆すのは、重大なことだ。民主主義の世の中で、国民に選ばれたわけでもない裁判官が、なぜ、国民の代表である国会がつくった法律を違憲無効とすることができるのか。裁判所は、どのような根拠で、自らの決定に正当性を持たせるのか。  憲法裁判所も究極的には国民の支持、国民的基盤に立つことを根拠とするほかない。この際、法曹一元の流れの中で、司法官僚に頼らない、広く国民一般の支持が得られる制度を構築する必要がある。政治的中立性の確保や、権威と信頼を生み出す構成メンバーの選び方が肝要だろう。  ヨーロッパの憲法裁判所の構成を見ると、裁判官、行政官、大学法学部教授、弁護士、公務員などのなかから、政府、議会の提案に基づき、大統領が任命するとか、あるいは、大統領、議会議長、元老院議長がそれぞれ任命するなど、いろいろな形がある。  日本でも、各界から多彩な顔ぶれが選ばれるよう、適切な推薦制を組み合わせるのがいいのかもしれない。いずれにしても、政治との対立が避けられない職務だけに、高い識見と独立性が求められよう。また、民主的正当性の確保の観点から、憲法裁判所の裁判官は、たとえば定期的に行われる参議院選挙ごとに国民審査に服すのが適当ではないか。 司法を身近に  自立した国民が一定のルールに基づき、自己責任のもとに行動する社会を実現するには、活発な憲法論議により、国民の関心を高める必要がある。と同時に、国民自身が、憲法を具体化するプロセスに、積極的に参加することが重要である。  私は、国民の信頼のうえに立つ新たな裁判所を創設し、これを通じて、国民が国家機構のチェックに関与することができれば、このような自立社会の実現に大きく貢献するのではないかと考えている。そのためには、これまでの裁判所のように、司法官僚に独占された、国民から遠いお役所ではなく、開かれた裁判所、多元的な司法制度を検討すべきではないか。  現代の裁判所は、国民の間の紛争処理や犯罪の処罰だけでなく、金融機関の破綻処理や倒産会社の再生支援など、国民生活の多くの局面で、迅速、広範な働きが期待されるようになった。このような国民のニーズにこたえ、エネルギーからバイオまで幅広い技術革新が進むなかで、社会生活の大きな変化に対応した司法であるためにも、法曹一元や陪審制、民間人の登用など、司法改革を積極的に進めるとともに、裁判所の裁判官の人事についても、公正性、客観性を確保する努力が必要である。

【新憲法試案のポイント】
・ヨーロッパ型の多元的司法制度とし、特別裁判所の禁止規定を削除する。
・憲法裁判所を憲法上明記し、違憲審査を主要な権能とするが、機関訴訟など法律上の争訟に当たらないもの、選挙制度の問題や国と地方自治体との権限争い、議員の弾劾裁判など、現在の司法制度では対象としにくい争訟を所轄する。
・条約、条例を違憲審査の対象とする。
・抽象的違憲審査、事前審査を可能とする。申し立てによる審査は、内閣、国会及び政党法に基づく政党に認め、国会では、少数派の意向も反映出来るよう、必要な申し立て人の数を、各議院における議員定数の一〇分の一とする。
・付随的違憲審査を最高裁以下の普通裁判所にも認める。
・普通裁判所は、付随的違憲審査にあたって必要と認めるときには、事件を憲法裁判所に回付して、その判断を求めることができる。この場合、最終的な憲法判断については、普通裁判所からの回付により、憲法裁判所が行う。他方、訴訟当事者は、普通裁判所に対し、法律で定めるところにより、回付請求ができることとする。これにより、憲法判断の終審としての役割を確保するとともに、同一事件処理に屋上屋を重ね、裁判が遅延することを防ぐ。
・憲法裁判所の独立性を確保するため、現在最高裁に認められている身分保障を引き継ぐ。普通裁判所も同様。
・憲法裁判所裁判官について、参議院選挙の際に、信任投票の方式による国民審査を行う。

四、財政健全化条項の創設

憲法に書くべきか否か
国家があり、国民があり、国民経済があってこそ、財政があるのであって、財政をよくするために国民経済を犠牲にするのでは、本末転倒である。財政政策は、経済政策の一部でもある。  財政運営は、景気の動向に配慮して機動的、弾力的に行なうべきだ。とすると、憲法に健全財政を謳うことは、硬直的財政運営を招きかねなず、有害との考え方もある。  ところが、今日の財政は、惨憺たる状況である。  国家と地方の債務残高は、GDPの約一・三倍、六〇〇兆円を超え、主要先進国中最悪だ。こんなことを続けていて国家の将来は本当に大丈夫なのだろうか。むしろ、財政の悪化が経済の足を引っ張ることになるのではないか。そういう心配が出てきて当然である。  六〇〇兆円を超える借金も、国民の金融資産が一三〇〇兆円以上あるから心配はいらないという人がいる。しかし、国民は自分の預貯金をただで国家にあげましょうと言っているわけではない。貸してあげましょうと言ってくれているだけである。  民間の企業活動の方にその資金が回り始めると、今後貸してくれるかどうか、つまり国債が消化できるかどうかわからなくなる。そう気安く、一三〇〇兆円もあるから心配ないと言うのは無責任ではないか。  責任ある政治家であれば、財政健全化が普遍的で重要な国政上の課題だと認識すべきだろう。

財政は国家と国民の信用度指標
財政は確かに、その時々の経済情勢、世界情勢など、景気循環的な要素で動くところもある。しかし、本来は他律的なものではなく、政治の責任において運営されるものだ。  大衆迎合的な財政運営によって、回復不可能なほどの財政赤字が生じれば、その政治的責任、政治の在り方が問われる。政治が、財政赤字解消の選択肢を提示した場合、政治に対する信頼があれば、国民はある程度の負担を覚悟してでも決断するだろう。  その意味で、財政は国家の信用、国民の自己統治能力を示す指標であり、国家の在り方の縮図でもある。  現行憲法は財政に関し、国会議決原則や租税法定主義という手続き規定を中心に置いている。しかし、ますます国際化する世界で、日本が信頼に足る国家であり続けるために、国家の財政運営の在り方、あるいは財政の規律という側面から、「健全財政」を憲法に明記しておくというアプローチもあるのではないか。  諸外国の憲法をみてみよう。  スイス新連邦憲法では、「連邦はその歳入及び歳出を、継続的に均衡が取れるよう保持する」としている。スペイン憲法は、「公費の支出は、公の財産を公正に配分する方法で行い、その計画及び執行は、効率と節約の基準に従うものとする」としている。  もっと踏み込んで、予算編成の原則を定めたものもある。イタリア憲法では、「新たな支出又は増加支出を伴うその他すべての法律は、そのための財源を示さなければならない」とされるが、これは米国の包括財政調整法にある「pay-as-you-go」原則と似ている。  また、ドイツ憲法には、「起債による収入は、予算中に見積もられている投資支出の総額を超えてはならない」とあるが、これは日本の、財政法第四条と同じ趣旨である。  さらに定量的な規定としては、ポーランド憲法に、「国家の公的債務が年間国内総生産額の五分の三を超えるような借入又は担保及び財政的保証の供与は許されない」とある。  また、米国の四一の州憲法は、残高制限、赤字の繰越禁止などの財政均衡条項を持っているが、合衆国連邦としては特に定めていない。ただし、連邦レベルでも、財政均衡を図るための連邦憲法改正が何度か議会で議論されている。  最近の例を挙げれば、一九九五年、共和党がクリントン大統領に対して、二〇〇二年までに財政均衡を義務付ける憲法修正案を提出した。下院は通過したものの、上院において、憲法改正に必要な三分の二に一票足らず、否決された。  そのため、米国は憲法改正によらず、キャップ制などを定めた累次の財政調整法によっての財政再建を実現したが、それは、財政問題が憲法にふさわしくないから、法律で解決したという意味合いではない。  どの程度具体的な規定を置くかについては、いろいろな考え方があるが、財政の健全性について憲法で規定すること自体、さほど違和感のあることではない。

歴史の教訓
日本では、健全財政の考え方は「財政法」に書いてある。「国の歳出は、公債又は借入金以外の歳入を以て、その財源としなければならない」。つまり、国家の歳出は原則租税収入でまかなうべきであって、借金は許さないという原則である。  戦時中の一九四五年度(昭和二〇年)の一般会計の国債依存度は、実に四二%に達した。  臨時軍事費特別会計の国債発行により、財政膨張はとどまるところを知らず、国民からの借金は軍事費に注ぎ込まれ、債務残高の対GDP比は、二六三%にまで上昇した。翌年には、これが一挙に四九%に激減し、国民の借金はハイパーインフレにより踏み倒された。  財政法の規定は、戦時国債の発行による軍事費の膨張が軍部の暴走を招いたという反省に基づくものだと言われている。にもかかわらず、一般会計ベースで比べると、驚くべきことに一九九九年度(平成一一年度)の国債依存度は、戦時中よりも高いのである。  現行の財政法は、一九四七年(昭和二二年)、憲法制定議会直後の国会で審議された。このとき、戦前の会計法が単なる会計事務処理手続を定めたものだったのに対し、新しい財政法は新憲法の精神を踏まえ、財政の基本原則を確立しようという意気込みで制定された。そのため、財政法には憲法に書くのがふさわしいような条文が見られる。  「国の債権の全部若しくは一部を免除し又はその効力を変更するには、法律に基づくことを要する」という規定や、課徴金法定主義などがその例だ。  私は、憲法に、最近の財政構造改革法にあったような時限的な内容や、技術的、定量的な規定を置けと言っているのではない。しかし、健全財政の原則という精神論はあくまで国家の在り方論であり、本来憲法にふさわしいものではないか。  そこで問題は、はじめに戻る。  財政は経済政策の一部であり、健全財政の原則を憲法に規定することは、硬直的な財政運営を招きかねないので、避けるべきか。それとも、国政の基本精神として、後世代に負担を先送りしない決意を憲法に謳うことが重要か。  人によって考え方は違うだろう。  私はやはり、問題提起の意味も込め、今の日本が置かれている状況を出発点とせざるをえない。今日の日本は、あまりにも膨大な借金を子孫に残してしまった。数多くの問題解決を先延ばしにしてきた結果である。  今こそ、二十一世紀のスタートにあたり、断固として構造改革に取り組むべき時だ。そして、「活力ある経済」、「安心できる社会」ヘの道を切り開いていかなければならない。  構造改革の精神はまさに、規律ある国政運営の在り方を示すものであって、その場しのぎの問題先送り型経済運営の対極にある。私は政治の責任を正面から問い直し、あわせて、この考え方を自立の精神を持つべき地方自治にも適用することとし、新しい条文を創設することを提案したい。

【新憲法試案・新設条文】
(財政の健全)
第■条
国及び地方自治体は、健全な財政の維持及び運営に努めなければならない。

五、公金支出規定の矛盾

【現行憲法・第七章 財政】
第八十九条
公金その他の公の財産は、宗教上の組織もしくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

私学助成は憲法違反か
現行憲法第八十九条は、大変わかりにくい。  第八十九条の前段の宗教に関する部分は、地鎮祭に自治体がカネを出すのはけしからんという趣旨の裁判が、時々話題になったりするので、まだ意味がわかる。しかし、後段はそのまま素直に読むと、私立学校に補助金を出すのは明らかな憲法違反ということになる。  多様で自立した国民を育てる上で、私学が果たす役割はきわめて大きい。高等教育を受ける国民の割合は年々増加し、国公立の学校だけでこれに十分対応することは困難である。そこで、実際上、政府は公益法人を窓口として私立学校への助成を行っている。  憲法の規定と現実があまりにかけ離れているので、たくさんの憲法学者が知恵を絞り、合憲とするための解釈をひねり出してきた。さまざまな説があるが要するに、今の私立学校は間接的に公の支配に属しているから、私学助成金は憲法に反しないという説明である。しかも、政府は私学へは直接支出せず、私学振興財団を経由し、表面上は間接助成のかたちをとって、議論から逃れようとしているように見える。  米国の州憲法には、私教育への助成を禁じた規定を置いているものがある。教育や慈善事業などの私的主体で行う事業は、自主性が大事であり、公の支配に属したのでは、主体性が損なわれるからよろしくないという、いかにも米国的な考え方である。  日本でも、私学助成はお断り、NPOやNGOも自前でやるから余計な口出し無用、と言い切るくらいの気概があればいいのだが、現実にそれでは立ちゆかない。実際には私立学校の補助金を増やせ、NGOには租税特別措置を認めよ、という声が、日本では圧倒的である。  いいか悪いかは別として、国民性というか、国家に多くを期待し、期待にこたえられない国家を叱責する声が大きいことも事実だ。  現実がそうである以上、公益性のある事業を行う私的団体に、国家がなにがしかの助成を行なうのが当たり前になっている。

国家の役割という原点に還れ
制定当時から現行憲法に関わってきた憲法学者の宮沢俊義氏は、著書「全訂日本国憲法」のなかで、「本条後段が日本の現実にはたして適合するかどうか、はなはだ疑問」、「立法論的には大いに検討を要する規定」としている。  内閣法制局の高辻正巳長官は、「あまり政治的でない、まあ実務的な憲法改正を考える場合に、一番最初に出てくるのが八十九条と言えるぐらいに八十九条は問題だと思う」と答弁している。  私は、国家に頼らない、独立独歩の精神を持つ日本人の在り方に重きをおく考え方に立つものだが、公金の支出という側面からこれを議論するのは、やや無理があるように思う。  今日、いかに国民の自主性・自律性が大事だとはいえ、国民の自発的な慈善・博愛の事業を国家が支援すべきでないという発想は出てこない。まして私学教育への国家の助成を禁止することについて、国民のコンセンサスがあるとは、到底思えない。  また、私学が国家の基本である「国民の教育」に果たしている役割は、決して小さくなく、きわめて公的なものと言わざるを得ない。  ただ、あくまでも私学助成を無条件で行っていいというわけではない。法律で助成の要件などを明示しておくことが必要なことは言うまでもない。  国民の税金を使う以上、私的団体であっても、補助金などが適正に使われているかを確認するなど、公の支配・監督が及ぶことは容認しなければならない。カネはよこせ、口は出すな、では、国民の理解は得られない。重要なことは、税金の使途について透明性を高めることである。  したがって、私は、慈善事業、教育、博愛の事業に対する公的支出を禁じた、第八十九条の後段の部分は、削除すべきだと考える。  また、教育への助成は、将来、学校法人に対する財政支出ではなく、教育を受ける個人への奨学金を充実し、解決すべきだと考えている。

宗教法人への優遇措置
第八十九条前段の「宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため」公の支出はできないとする規定は、堅持されることが必要と考える。ここで禁止している公的支出は、補助金や助成金など具体的な資金の支出のほか、税制上の特典付与も含まれるという意見がある。  これに対して、憲法で「信教の自由」が認められているから、宗教団体に課税することは憲法違反だとの議論が一部にある。しかし、「出版その他一切の表現の自由」があったり、「職業選択の自由」があっても課税されている。宗教団体への税制上の優遇措置が、憲法上の「信教の自由」を根拠としているという論に、にわかにはうなずけない。  宗教法人には、「法人税法」に基づき、税制上の優遇措置という特典が、政策的に与えられていると考えるべきではないか。  公益法人の会計の透明性が求められている今、非課税措置を受けている宗教法人は、少なくとも自らその収支を国民全体にオープンにすべきではないだろうか。  やや本論から逸れるかもしれないが、オウム真理教は極端な例としても、客観的にはとても宗教団体とは見られない団体が、税制上の特典を目的として宗教法人を装っているとしか思えないものも見受けられる。  一部の極端な行為によって、健全に精神世界を守っている宗教までもが後ろ指をさされるようなことがあってはならない。そのためにも、高い公徳心を持つことが真髄である宗教が、社会規範を逸脱していると疑われることがないように、自ら常に襟を正していくべきだと私は思う。

【新憲法試案・改正条文】
(公の財産の支出又は利用の制限)
第八十九条
公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

六、二十一世紀は地方の時代

「地方の時代」にふさわしい憲法の確立  
地方が治まって、はじめて国家が治まる。「地方自治は、民主政治の最良の学校であり、その成功の最良の保証人である」(ジェームス・ブライス/英国の政治家・思想家)。この言葉は、地方自治の本質をついた言葉として有名である。  二十一世紀に、国家運営を活力あるものとするために、国と地方との関係を根底から考え直してみる必要があるように思う。  たとえば、ドイツ基本法は、「国家の権限の行使及び国家の任務の遂行は、この基本法が別段の定めをせず、または認めない限り、州の事務である」と規定し、地方が包括的な行政事務を行うという規則を示している。  これはわかりやすい。すべてを国家がやる、という中央集権的な思想を根底から否定している。行政事務はすべて地方の仕事とし、国家が受け持つ部分は例外として憲法(基本法)に示そうというのだ。  地方分権改革は、一九九三年(平成五年)の衆参両院の「地方分権の推進に関する決議」から、地方分権推進法を経て、地方分権推進一括法が制定され、かなりの前進が見られた。今回の改革は、地域に密着した事柄をそれぞれの地域で決めるシステムを構築するため、国家に集中している権限や財源をできるだけ地方自治体に移そうとしている。だが、肝心の「自主財源の確保」の問題は解決されていない。  果たして、今回の分権改革により、日本の社会はどのように変わるのだろうか。  日本では、これまでも、国民に対する公共サービスは、主として地方自治体が供給してきている。介護保険の実施、街づくりの進展など、その傾向は、今後ますます強まることだろう。  ところが実際には、地方自治体が公共サービスを給付するに当たって、国家がさまざまな関与を行い、地方の自己決定権を奪ってしまっている。こうした状況をつくりだしている背景には、憲法に定める国家のシステムにおける地方自治の位置づけが、第九十二条にある「地方自治の本旨」といった曖昧な表現にとどまっているからのように思われる。  「地方の時代」が謳われて久しいのに、国民がそれを実感できない理由もここにある。  日本は狭い島国だが、地域社会はそれぞれに、その地理的条件、歴史、文化、人口構成、産業構造などを異にし、個性的である。地域的な行政サービスは、それぞれ固有の諸条件に適合したかたちで提供されることが大切だが、そのためには、その決定と実施を地域住民の自己責任の下で、自主的な判断と選択にゆだねることが必要となる。  新しい憲法には、地方自治体とその地域住民の自立と自己責任を原則とする旨の規定を置きたい。

地方自治の基本原則
地方分権を進め、国と地方の在り方を新しくするためには、以下のような原則を基本とすべきである。  第一は、国家と地方との役割分担を明確にすることである。国家は本来果たすべき役割を重点的に担い、地域住民に身近な行政はすべて地方自治体にゆだねる。  もっと言えば、市町村でできることは市町村でやる、どうしてもできないものだけを都道府県が、さらに都道府県ではできないものだけを国家がやる。市町村、都道府県の自立を前提にして、地域住民に身近な行政分野については、基礎的自治体の責任を優先させることが基本である。  第二は、自分たちに与えられた役割を自分たちの責任で実行する体制をつくり上げなければならない。国家が落ちこぼれのないようにあらゆる自治体の面倒を見る護送船団方式の社会システムを廃し、自己責任の原則を厳しく持たなければならない。  地方自治を強化することに対して、権限が当該の首長に過度に集中していることによる弊害を懸念する意見がある。首長に認可権を与えたリゾート開発法による事業破綻の事例などを見ると、うなずける。  国家における会計検査院に相当する地方の監査委員の任免権は、自治体の首長が握る構造となっている。これでは、本来の意味での監査は期待できない。地方が自立し、国家の干渉を排するのであれば、複数の地方自治体が広域的に監査委員を選定する仕組みを創設し、利害関係の及ばない地域のチェックを担当させ、地方自治における透明性を確立することが重要だと考えている。  現行憲法の「地方自治の本旨」を明確にするため、地方自治は、具体的に地方分権を推進するための基本的な「原則」に基づくことにすべきである。  なお、現行憲法上で使われている「地方公共団体」という呼称は、自らが治めるというニュアンスをより強く打ち出すため、「地方自治体」に変更したい。

【新憲法試案・新設条文】
(地方自治)
第■条
地方自治は、地方自治体及びその住民の自立と自己責任を原則とする。

第■条
地方自治体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の原則に基いて、法律でこれを定める。

二十一世紀の自治体像  
現行憲法は、二〇世紀の後半に福祉国家の時代の到来をもたらした。その反面、中央政府の実質的権限が拡大し、国民の生活に直接かかわることまでもが中央で決められるようになった。そのため、地方自治体の決定権が相対的に弱くなった。このことが一面において、国民の政治に対する無力感、無関心を引き起こしたように思う。  地方自治の基本原則では、本来、地方の行政、事務が、地域の住民によって構成され、国家から独立した地方自治体を通じて行われなければならない。  そのためには、地方自治体を立法、行政の根源的主体として位置付け、その内容、運営方法を明らかにし、具体的な権限、財源を付与することが必要である。  地方自治体の単位としては、今の市町村、都道府県の財政や人口の規模が小さ過ぎる。  地方の現場の状況を見ると、介護保険制度を支えるために必要なスケール・メリットが生じないし、廃棄物処理・リサイクル・システムを機能させる規模も貧弱なため、環境問題が起きている。これらの課題を解決し、あわせて自然条件、歴史、文化などにあった広がりを持つ、人口規模として五〇万人程度が考えられよう。  こうした適正な規模の基礎的自治体をつくりあげるため、まず、市町村の合併を加速したい。現行の市町村の合併を進め、自立し、自己責任に基づく行政サービスが給付される体制が確立することが必要となる。  次に、広域行政の地理的範囲の拡大を実施しなければならない。  基礎的自治体の規模を拡大し、権限、財源の委譲を進めていけば、「中二階」とも言われる都道府県の存在感はますます薄まっていく。この観点から、都道府県を廃止して、道州制を導入すべきである。  たとえば、首都圏では、一都三県四政令市が一体となって取り組まなければ解決できない問題が増えつつある。また、地方でも、岩手県知事や大分県知事のように「東北は一つに」、「九州府の設立を」と積極論を展開する首長も出てきている。  私が提案する「道州制」は、基礎的自治体間の調整及びより広域的な行政を主な任務とする。ここに中央官庁が地方機関として持っている権限も委譲する。このようにすれば、中央省庁の仕事で、地域住民の生活に関わるものは「道州」までで大半は完了してしまうことになる。  現行憲法は、地方自治の組織に関する事項を法律で定めると規定しているが、たとえば、イタリア憲法は、「共和国は、州、県、及び市町村に区分される」と区分を明確にしている。私も「道州制」は、国家の形態を大きく変えるものであり、憲法上規定されるべきことが必要と考えている。 自主財源の確保  地方自治体が本来の機能を発揮し、地方自治を実現するためには、国や都道府県から都道府県・市町村に対してなされてきた関与を、できるだけ廃止・緩和することが必要となる。  今回の分権改革で、この観点から、機関委任事務の廃止、必置規制の緩和や廃止などが行われてきたことは評価したい。  しかし、まだ残された課題は多い。  なかでも、もっとも重要なのは自主財源の確保である。地方分権によって、地方が得た権能を有効に活用するには、行政執行のための財源も地方自治体に移さなければならない。イタリア憲法では、「州は、国、県及び市町村の財政との調整を図る共和国の法律によって定める形式と限界内において、財政上の自治権を有する」、あるいは、「州の通常の機能の遂行に必要な出費のために、州の需要に応じて、固有の租税及び国税の一部が、州に与えられる」としている。  日本においても、ながらく三割自治といわれてきた中央主導システムを変更し、地方自治体の実際の仕事に見合った税源を与えるべきだ。大事なことは「お金は天から降ってくる」といった中央からの資金をあてにする感覚を捨てることである。地方の収入を増やしたいというのであれば、住民が参加して、どんなサービスが必要か、その資金は誰が負担すべきかを徹底的に議論して、自治体の責任で決定するシステムをつくらなければならない。具体的な仕組みは法律にゆだねることとして、その基本原則を憲法に規定しておくことが大切である。  地方自治体は小なりといえども政府であり、地域の住民により直接選挙で選ばれた首長や議員が地方自治体の運営に権限と責任を持つ自立した存在である。したがって、地方自治体は中央政府から独立した存在であり、国家と地方自治体との関係は「対等・協力」であるべきだとの意見がある。  政府の事務のうちで地域に関わることの最終決定権が、原則地方自治体にあるという意味では、地方主権論に賛成だ。だが、国家と地方自治体との関係を、法的にまったく対等にはできないことに留意しなければならない。  言うまでもなく、日本は連邦国家ではない。  国家の立場から考えなければいけない利益が、地方自治体の主張と相反する場合には、国家の対応が優先することは当然である。つまり、一地域の利益より、国益が優先すると言うことだ。  一方、現行憲法は、地方自治体の立法権とも言うべき条例制定権を「法律の範囲内」に限定している。これは制度としては正しいのだろう。ただ、現実には、地域住民に関わるさまざまな問題を地域に即して解決していくために、地方自治体は条例を定めることにより、独自の工夫をしているケースが増えてきている。  自治体の手足をしばる法律を制定して地方自治の発展を妨げないために、「法律の趣旨に反しない範囲」であれば、自治体の判断で条例を定めることは許されていい。そのような観点から、「法律の趣旨の範囲内で」という制約にとどめることを提案したい。 首長多選の弊害と地方自治の自立  これまでの地方分権の論議は、団体自治の拡充を主眼にしてきており、住民自治の面からの改革が、今後の課題となろう。その一つに、地域住民とその代表機関である首長及び地方議会との関係で、首長の多選の問題がある。  二〇〇一年四月の時点では、都道府県知事の約二割にあたる九名が四選以上で、うち六選が三名いる。これらの人々は、政策、人物などが優れているからこそ、長期にわたって地域住民の支持を得て選ばれているのだろう。自立と適正な競争が求められる地方主権の時代だからこそ、地域経営のトップの役割を担う首長は、地域住民が自らの意思で選ぶのが当然で、住民自治の具体化として、地方自治の本旨にかなうことだということもできる。  ただ、同じ人があまりに長期に在職すると、自治体行政の硬直化が進むと批判する意見も多い。特に、都道府県知事の権限は相当に強大で、いったん選ばれてしまうと、多様な住民の意思を反映する立場の地方議会のチェックや、適切なコントロールが働きにくいという現状も指摘されている。  今の選挙の実態から見ると、首長を選ぶ住民が、多選には弊害があることを十分理解したうえで、なお長期政権を望んでいるとは考えにくい。そこで、法律などによって首長の在職期間に一定の制限を加えてはどうかという議論がでてくる。これは、住民自治制度の核心に触れることでもあり、慎重に検討することが必要だ。  たとえば、米国のように、かなりの数の州が、その州の憲法で州知事の三選あるいは四選の禁止を定めている例もある。原則として三選あるいは四選以上を認めないルールを地方自治体が自ら決めることができるよう、憲法に根拠となる規定をおいておくことが望ましいように思う。  また、住民投票の在り方についても考えておかなければならない。  最近、地域住民の意思を直接反映する新たなタイプの住民投票の動きが見られるが、住民自治の観点からはどのように評価したらいいだろうか。  沖縄では、国家が担当すべき外交政策にまで踏み込んで、日米地位協定の見直しと基地の縮小整理をめぐって住民投票が行われたことは記憶に新しい。  地域の住民が投票によって自らの意思を表明することは、民主主義のもとで当然のことといえよう。しかし、その対象が地域の枠を明らかに超え、一地域の住民の利害や判断が、国民全体の利益や国政に影響を及ぼすとしたら問題だ。  基地や原子力発電所などの施設の立地を住民投票にかけることは、国家の安全保障やエネルギー政策に影響を及ぼすことになる。住民投票になじむのはその地域内で処理できる事項、たとえば自治体合併の是非を問うといったテーマに限定するべきではないだろうか。

【新憲法試案・改正条文】
(地方自治)
第■条
地方自治体には、法律の定めるところにより、その議事機関として議会を設置する。
地方自治体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方自治体の住民が、直接これを選挙する。
地方自治体の長の任期は、法律によって定めることができる。又、多選の制限を設けることができる。

第■条
地方自治体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権能を有し、法律の趣旨の範囲内で条例を制定することができる。

七、憲法改正の手続き

改正要件を緩和すべきだ
憲法は、改正手続きを難しくし過ぎると、時代の変化になかなか対応できない。そのためには、国会の発議権の要件を「三分の二以上」から「過半数(二分の一以上)」に改めることが必要だと考える。  現行の「三分の二以上」というハードルは高い。日本の国会勢力分野の現状に照らしても、与党第一党と野党第一党が手を結ばないと、憲法改正はできないということになる。その場合、さまざまな当面の利害を絡めた政党間折衝が行われたりすれば、憲法改正の内容が妥協の産物となるおそれがある。状況の変化、時代の変化に機敏に、的確に対応するには、国会議員の国民投票発議権の要件を「過半数」に引き下げるべきだろう。  ドイツ在住のノンフィクション作家・クライン孝子氏からいただいたメールによると、ドイツは二〇〇〇年一〇月二七日に四七回目の憲法改正が行われた。注目すべきは、女子が軍務に就いても武器を取ることを禁止されていたのを、女性兵士が男女平等の原則に反するとして訴えたのをきっかけに、武器の携帯が認められるように改正されたという自立心の旺盛さである。  ドイツの憲法改正手続きは、「連邦議会議員の三分の二および連邦参議院の表決数の三分の二の賛成を必要とする」とあり、国民投票は必要としない。  その分、憲法を改正しやすいと言える。  日本の場合、国民の参加意識を高めるためにも、国民投票にかける手続きはやはり残しておくべきだろう。  これにともない、国民投票の諸手続きを定めた「国民投票法」を制定すべきなのは言うまでもない。

【新憲法試案・改正条文】
(改正手続き)
第■条
この憲法の改正は、改正案について、各議院の総議員の過半数の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、直ちにこれを公布する。