【第三部】 共生社会の権利と義務

一、憲法は基本的人権の「盾」

【現行憲法・第三章 国民の権利及び義務】
第十一条
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

第十二条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

第十三条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

第十八条
何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。

第十九条
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

第二十条
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

第二十二条
何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。 何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。

第二十五条
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

第三十六条
公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁止する。

共生を社会の共通の理念に
今後ますますグローバル化が進み、ヒトやモノ、カネ、情報が、国境を意識せずに自由に移動する傾向が強まってくる。同時に、国際化は、地球環境問題、南北問題、難民問題、軍縮など、現代の社会に多くの問題をもたらすことになるだろう。  これらの問題は、国家という枠組みだけでは解決することが困難である。国際社会での「共生」の理念により解決していかなければならない。  その際、大切な行動原理として、世界平和実現のためにも、私たちの生存を許している地球規模の環境を守るためにも、国と国とのエゴの衝突は、共生の理念の下、徹底した話しあいにより、解決を図っていくべきだ。このことは、国内問題の解決についても同様で、共生の理念を国民の意識や社会制度のなかに組み込んでいくことが必要である。  また、自然との共生という観点から、環境の保護を憲法に明記する重要性も強調しておきたい。  グローバル化によりヒト、モノ、カネ、情報が国家の枠を超えて行き来するようになると、国際企業や国際機関、非政府組織(NPO)など非国家の存在が大きくなる。これらの市民権を保護する必要もある。  一方で、豊かさを求める自国民の要求にこたえるために、国家間の国際競争は厳しさを増すことだろう。国家は、個人にとっての生活の場としても、あるいは国際紛争の面でも重要な役割を期待されるようになる。人々も国家とは何かを意識し、アイデンティティを求める。それとともに、経済的な豊かさだけではなく心の豊かさを追求するようになり、家族や地域にその関心が向かう傾向が強くなっていくことだろう。  憲法は、このような社会の変貌に対応して、社会を構成する多様な主体のなかで、いったい誰の人権をどのように保障しようとするのだろうか。

変化する社会と憲法  
基本的人権の尊重は、現行憲法の基本原則の一つである。  この五五年間の日本社会の変遷を振り返ってみると、現行憲法は、国民生活の向上や日本の繁栄のために大きな役割を果たしてきた。第十九条「思想及び良心の自由」や第二十条「信教の自由」などは、戦前および戦中の日本社会の在り方への反省として、その崇高な価値が高らかに唱われ、社会に奔流のように広まり定着した。  自由な精神を保証する現行憲法は、自由主義経済の確立も支えた。現行憲法の下、自由主義経済は社会に広く浸透し、日本は、戦後の復興、高度経済成長、都市化などの道をひた走りに走ってきた。  日本人の平均寿命は、男性七十八歳、女性八十四歳と世界最高のレベルに達した。  この長い人生を過ごすなかで、日本人は高い教育を受け、豊かな収入で暮らすようになった。エネルギーをたくさん消費し、使い捨ての文化を楽しむようになる一方で、大気汚染や海洋汚染、温暖化など地球規模での環境問題に直面している。  昨今の社会は、青少年による凶悪な殺人事件の頻発、学校内での体罰、いじめ、学級崩壊、若い夫婦による幼児の虐待など目を覆いたくなる状況ばかりだ。青少年だけではない。政界、官界、企業にはびこる汚職、社会での差別、人権侵害など、異常な事態が続出している。  経済的な豊かさとは裏腹に、人々は精神的に貧しくなってきたように思う。自己中心主義が支配し、社会との連帯感、他人への関心、家族や社会への責任が失われ、倫理観が弱くなり、国家や家族に対する誇りが失われている。新しい社会の価値観として、「共生」というキーワードが急速に台頭してきたのも、このような種々の社会現象に対する反省から生じたものだろう。  こうした政治、社会、経済生活の混乱を、もう放置しておくことはできない。どうしたらいいかをずっと考えてきた。結局、根本的なところで憲法とかかわりがあるのではないかと思うようになった。

旧憲法の名残り
現行憲法の「国民の権利及び義務」の規定を見ると、保障している権利の大部分は自由権に分類できる。  近代社会において、人権は、国家との関係における国民の権利であるとされてきたし、今日でも「権力」に対抗して主張されるものという本質を持っている。特に、日本では、現行憲法の制定以前に政府(国家)によって多くの国民の権利が圧迫されてきたという不幸な歴史がある。  明治憲法下では、国民の権利は天皇から与えられたものだった。だから、天皇の代理人である「官僚」は、天皇が統治する国家の「安寧秩序」を妨げている、あるいは「臣民たるの義務」に背いている、さらには法律の範囲を逸脱していると判断すれば、臣民の「権利」を容易に侵すことができた。  その時代の記憶が、現行憲法の条文のあちこちに散らばっている。第十八条「奴隷的拘束及び苦役からの自由」や第三十六条「拷問及び残虐刑の禁止」にも、国家から国民が悲惨な生活を強いられていた時代の名残りが感じられる。現代の時代感覚として、このような原始的な保障まで、書いておかなければならないというのは情けない。  一方、複雑多様化した現代の社会では、国家(全体の利益)と国民(人権)がいろいろなかたちで衝突する可能性が、これまで以上に大きくなるだろう。  これに関しては、国家による新しいかたちの人権に対する侵害から、国民の権利を守るため、のちほど述べる「知る権利」や「適正な手続き」の保障などを、人権を尊重するルールとして憲法に規定しておく必要がある。

個人主義が行き過ぎていないか  
第十三条は「すべて国民は、個人として尊重される」と定めている。  ただ、日本社会の現状を見ると、行き過ぎた個人主義が横行していて、権利ばかりを主張する人々で身動きの取れない状況になっているように思う。個人の自由を守ることに躍起になった反面、社会全体の機能を正常に維持する努力がおろそかになっては、結局、個人の自由も守ることができなくなる。  憲法が権利や自由を保障するといっても、勝手気まま、やりたい放題に何をしてもいいということではない。一九世紀に「アメリカの民主主義」を著したトクヴィルは、「個人主義は、最後には、他のすべてのものを攻撃し、破壊し、そしてついに利己主義の内に呑み込まれることになる」と警告している。  憲法が保障する自由にはおのずから一定の限界がある。一七八九年のフランス人権宣言第四条は「自由とは、他の者を害しないすべてをなしうること」と言っている。  現代社会は、人権宣言の実現を目指してきたはずだが、どうやらトクヴィルが警告したような悪い方向に進んでいる。何としても、くい止めなければならない。  大切なことは、自己の権利を行使しようとする場合には、他人の権利を害さないよう努力しなければならない、ということを社会の基本ルールとして国民の間に定着させることだ。

財産権の行使と公共の福祉との調整  
国民の権利のなかで、他人の権利、特に多数の国民の権利との調整が必要なのは、とりわけ財産権である。  日本では、個人の財産権のまえには公共の利益は沈黙させられることが多い。  たとえば、公共事業が行われる場合に、その事業に必要な土地を持っている個人が「財産権」を盾にして、事業に反対し、「ごね得」ともいえるほど不当な利益を得ることがしばしばある。そのために、事業は著しく遅れ、あるいは支払われる補償額が増大することになり、事業費が膨大な額にのぼる。そのツケは、公共のサービスを受けられないまま、税金を支払っている国民に回ってくるのである。  かつて、首都東京では、「一人の反対があれば橋はつくらない」という考え方により都政が運営され、環状道路をはじめとする都市整備が著しく遅れた。そのため、環境の悪化、深刻な渋滞が引き起こされるなど都民だけでなく、国益に多大の損失をもたらしている。  自由権を守ることに重きが置かれ過ぎた結果、国家あるいは社会そのものの正常な機能が維持できなくなる傾向にありはしないか。  財産権が何より優先されるべきだと主張するケースは、日本では、特に土地の所有と利用をめぐって起きている。第二十九条第三項の規定を具現化した土地収用法は、一九六七年(昭和四二年)以来改正されていないし、法に基づく収用権の発動はなかなか行われない。  このことが、都市計画や街づくりなどがなかなか進まず、日本の街が雑然としていて美しくない理由の一つでもある。  諸外国では、たとえばドイツ連邦共和国基本法は、「所有権はこれを保障する。内容及び制限は、法律で定める」とするとともに、「所有権は義務をともなう。その行使は、同時に公共の福祉に役立つべきものでなければならない」としている。  また、イタリア憲法のように、財産権のなかで、特別に土地所有権だけを取り出して憲法上で規制しているところがあるほどだ。  国民の多数の幸福や権利の実現のためには、個人の財産権といえども制約されることをもっと強く認めるべきではないか。  現行憲法は、第二十九条第二項で財産権が「公共の福祉」によって制限されるものであることを述べている。今後は、さらに一歩進んで、財産権は、「公共の福祉」によって制約されるだけでなく、その行使には「公共の福祉」を実現する義務がともなうことも明確に規定すべきではないだろうか。

「公共の福祉」について考えよう
そこで第十二条、第十三条及び第二十二条、第二十九条に置かれている「公共の福祉」という言葉について、考えておかなければならない。  「公共の福祉」は、第十二条で「自由及び権利は、・・・常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」、第十三条では「国民の権利については、公共の福祉に反しない限り・・・最大の尊重を必要とする」、第二十二条「公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由」、第二十九条「財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに」とされている。いずれも憲法の条文のなかで、人権を制約する根拠となっている。  ところが、この『公共の福祉』という言葉は、その概念が明確でなく、そのことが、今日の社会で権利の濫用を招いたり、個人主義の行き過ぎによる混乱をもたらす一因となっている。  「公共の福祉」は、アリストテレス以来、個人の利益を超え、ときにそれと対立する社会全体の利益を意味するものとして使われてきた。歴史を振り返ると、世界でも「公共の福祉」の概念が、全体主義的な意味あいをもつケースがしばしばあった。  その反省からでもあろう。憲法学者の間では、「すべての個人に優先する全体の利益ないし価値というものは存在しないのであり、『公共の福祉』は、個人と他の個人の人権が衝突したり矛盾したりする場合を調整する原理」と解釈されてきた。  しかし、この考え方は、自己責任・自立社会では、個人の人権の実現を保障するルールとしては、あまりに抽象的過ぎる。私たちが目指す共生社会で、ひとりひとりがどのように行動したらよいかを示す基準を確立するためには、「公共の福祉」の概念を明確にすることが大切である。

たとえば「公共の利益」に変えよう
現行憲法に使われている「公共の福祉」という言葉は、第十二条、第十三条のように基本原則として規定する場合には「公共の利益」とするべきではないだろうか。「福祉」という表現には、どうしてもその対象が個人であるというイメージが強い。個人を超えたところにも、追求すべきものはあると思うからである。  この場合、注意しなければいけないことは、国家といえども個人の集合であり、個人と無関係の独立した何かの概念があるわけではないということだ。すなわち、「公共の利益」を盾にとって国家益が国民益(個人益)よりも優先することを承認するのではないこと、「公共の利益」が基本的人権に無条件に優先するとか個人より国家が上位に来ることを認めるなどということではないということをはっきりさせておきたい。  人権の種類により色々と違いがあると思うが、共通する内容として、国際人権規約では、表現の自由について、「権利の行使には、特別の義務及び責任を伴う」と規定している。そして、「他の者の権利又は信用の尊重」、「国の安全、公の秩序又は公衆の健康若しくは道徳の保護」という目的に必要な限度で法律の定める「一定の制限」に服するとしている。この国際人権規約などから導き出される「人権の限界」についての考え方を明文化してはどうだろうか。  つまり、個人の人権を行使する場合には、他人の安全や健康を害してはならない、当然、社会秩序や道徳に従わなければならない、他人の権利や信用を傷つけてはいけない、ということだ。

【新憲法試案・改正条文】
(自由及び権利の保持責任)
第■条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。また、国民は、これを濫用してはならず、常に公共の利益との調和を図らなければならない。

(個人の尊厳)
第■条
すべて国民は、個人として尊重される。 生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利は、公共の利益に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重される。

(居住・移転の自由、国籍離脱の自由)
第■条
何人も、公共の利益に反しない限り、居住移転の自由を有する。 すべて国民は、外国に移住し、または国籍を離脱する自由を有する。

(私的な経済活動の自由)
第■条
何人も、公共の利益に反しない限り、私的な経済活動を自由に営む権利を有する。

(財産権)
第■条
財産権は、これを犯してはならない。
財産権の内容は、公共の利益に適合するように、法律でこれを定める。
私有財産は、相当な補償の下に、これを公共のために用いることができる。

二、権利と義務のバランスをとろう

義務の少ない憲法
現行憲法の第三章は、「国民の権利及び義務」と題されている。ところが条文を見ると、権利に関する規定が圧倒的に多く、義務に関する規定が少ない。  第二十六条の「教育を受けさせる義務」、第二十七条の「勤労の義務」、第三十条の「納税の義務」を定めるほかに、義務に関する規定は見当たらない。世界各国の憲法と見比べてみても、国民の義務に関する記述が三つしかない憲法は珍しい。  私は、二年前に上梓した『二〇一〇年・日本実現』のなかで、社会に対する個人の責任と義務、あるいは自己責任原則の社会を構築するために、憲法が国民の権利と義務のバランスを踏まえているかどうか、議論してみる価値があると問題提起した。  国家はこれを組織する全国民の利益共同体である。私たちの権利を守るためには政府が必要であり、運営する費用として納税することが必要となる。教育や勤労についても、義務を果たすことが求められるのは当然である。  これまで、圧倒的多数の国民は、書かれていない「義務」を果たして、社会の発展のために黙々と汗を流してきた。その結果が、今日の繁栄である。 ところが、経済的には豊かで、自由奔放に生きることができる社会が出現すると、自由過ぎるがゆえの多様で複雑な利害関係の調節が待ち受けていた。今後の社会生活や環境の改善を円滑に行っていくために必要と思われる義務に関する規定を、きちんと整理して、わかりやすい言葉で憲法に定めていくことが望ましい。

法を守る精神を取り戻そう
まず最初に、二十一世紀の新しい憲法に盛り込みたいのは、国民ひとりひとりが憲法や法令を守る義務である。  現行憲法は、国民に対し憲法を含む法令を尊重・擁護する義務を特に規定していない。  第九十九条には、「公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と憲法尊重擁護義務が規定されている。憲法を守る義務を負っているのは「公務員」だけであって、「国民」にその義務はないのか。  そうではない。  主権者である国民が、自ら制定した憲法を遵守することは当然の前提なので、規定していないだけのことだ。また、現行憲法の目的が、国家権力を抑制し、国民の自由を確保することに主眼を置いているから、特に国家権力を担う立場の公務員のみに、憲法遵守の義務を負わせたとも考えられる。  既に述べてきたことだが、最近では国民全体が自由・権利を過度に主張する傾向が強く、社会規範を尊重・擁護する意識が低くなっているのではないだろうか。  たとえば、政治家や公務員、一流と見なされていた法人の犯罪的行為が暴かれるたびに、私利私欲のため、あるいは会社の儲けのためには、法令や道徳は二の次といった行為がはびこっていることに驚かされる。奔放なまでの自由権が保障された憲法の下に暮らしているせいか、権利を守るための義務を果たすという当然の精神が失われているのではないか。  先進諸国の憲法で、国民の法令遵守義務を規定しているものは、必ずしも多くはない。  例を挙げるとすれば、イタリア憲法では、国民の国家に対する忠誠とともに憲法・法律を遵守する義務が規定されている。また、最近制定された憲法のなかではポーランド憲法(一九九七年制定)に、国民の法令遵守義務が定められている。ドイツ基本法は、ナチス時代の反省から、憲法的価値を国民に強制する考え方をとっている。  それでは、憲法に国民の憲法・法令遵守義務を規定すると、どのような効果が期待できるのだろうか。これについては、現行憲法第九十九条に関する判例が参考になろう。  東京高等裁判所は、憲法九十九条の定める公務員の義務は、言わば、倫理的な性格なものであって、この義務に違反したからといって、直ちに本条により法的制裁が加えられたり、当該公務員のした個々の行為が無効になるわけではない、との判断を示している。  つまり、国民の憲法・法令遵守義務も倫理的な規定とみるべきであり、そこから直接的に法的強制を引きだすべきではないだろう。むしろ、このような規定をてこに、国民が憲法の価値や精神を理解することが重要なように思う。  強調しておきたいのは、基本的人権が、憲法というルールによって認められているのだから、そのルールの体系を保持することは国民の基本的義務であるということである。したがって、明確に「法の秩序に従う」という基本的な義務についても、憲法上に規定しておくことが必要ではないだろうか。  繰り返すようだが、憲法を守る義務をおいたからといって、憲法を議論したり、改正したりすることを禁じるものではない。そんなことは当たり前ではないかと、読者の多くは考えるだろう。しかし、この半世紀、憲法を議論することすらタブーにしてきた過去を振り返ると、念のために、そうではない、と言っておかざるを得ない。

【新憲法試案・新設条文】
(憲法・法令遵守義務)
第■条
すべて国民は、憲法及び法律を尊重し遵守する義務を負う。

三、新しい人権の創造

名乗りを挙げる新しい人権
現代社会はますます速度を速めて変わりつつあり、憲法制定当時には想像すらできなかった状況のもとで、新しい人権に関わる問題が起きている。  報道によるプライバシーの侵害、身近な自然環境や歴史文化の破壊、道路を通る自動車の騒音、卑近な例だが電車のなかや劇場での携帯電話による迷惑など、半世紀前には問題になろうにも原因さえ存在していなかった。  こうした変化のなかには、新しい法律でルールを定めなければならないものも増えている。環境やプライバシーなど、憲法を見直したほうがいいと思われるものもある。日本ではこれまで、憲法を修正することをせず、憲法解釈の変更というやり方で対処してきた。その際に根拠とされたのが、たとえば第十三条であり、第二十五条である。  第十三条は「全て国民は、個人として尊重される」としている。これは、個人が自分のライフスタイルを自分で決定できるということであり、自己決定、自己実現ができるということである。ところが、高度経済成長の過程で、いろいろな社会の変化についていくことが難しく、自己実現ができない人々が多くでてきた。障害者、高齢者などが自己実現しにくい社会は、基本的人権が保障された社会とは言えない。  基本的人権は、人間としての生存に不可欠な権利なのだから、これまでのように憲法の解釈運用によりその実現を図るというような迂遠なやり方ではだめだ。  自己実現が困難な境遇にある国民の権利を保護するため、可能な限り新しい人権を明文で保障し、人権としての地位を与えるようにすべきだと考えている。

環境の保全に関する権利と義務  
「環境権」なる言葉が日本で最初に登場したのは、一九七〇年(昭和四五年)の国際社会科学評議会の環境破壊常置委員会主催のシンポジウムで採択された「東京宣言」のようである。この年はいわゆる「公害国会」が開催され、「公害対策基本法」をはじめとした一〇本以上の対公害法が成立した年だ。先頃、省に昇格した「環境庁」はこの翌年、発足している。  私たちが生きていく上で、空気や土、水がきれいであることは絶対に必要なことである。ところが、日本ではこれまで高度経済成長が進むなかで、大気汚染、土壌汚染、水質汚濁などが急速に進行し、人の生命と健康への被害がもたらされてきた。その後、多くの公害裁判などを通じて、人間らしい快適な生活を営む権利としての考え方が定着し、忍耐の限度を超える大気汚染や騒音には損害賠償が認められるようになった。  「環境権・環境保全義務」は、健康や生活への被害が起きないよう、快適な環境や歴史的、文化的環境を守ろうという考え方だ。それは、人間らしい生活を営む権利の重要な要素であり、新しい権利・義務として憲法上規定すべきものである。  環境が国家により保全されないという問題も重要だが、これからはむしろ、企業や個人が環境を破壊するケースが多くなると考えられる。特に大規模な開発にともない、貴重な自然が破壊され、自然生態系が変容したり、生物種の絶滅が引き起こされる事例が後を絶たない。森林や干潟を破壊しても、同じような規模の人工的な環境を再生すればいい、とする考え方もあるが、いったん破壊され、絶滅した自然と生き物は未来永劫取り戻すことはできない。日本の豊かな自然と生きとし生けるものすべてが、国家の歴史、文化であり、私たち日本人を育んでいる舞台であることを忘れてはいけない。  その意味で、私は環境保全義務を広く国民の義務としたい。  環境権や環境保全義務を憲法に盛り込むことによって、ゴミの分別、リサイクル制度を推進する法律や、地方自治体のポイ捨て条例にいたるまで、環境に関連する法律や制度をいっそう充実させ、国民の環境意識もさらに高めることができるだろう。  すべての分野において環境配慮が必須になりつつある時代背景を先取りして、日本は世界に先駆け、環境省を内閣に位置づけた。さらに、「環境権」と「環境保全義務」を憲法に明示すれば、すべての行政分野が環境の視点を持たざるを得なくなる。そのとき、日本の環境保全への取り組みの確かさは、世界と私たちの子孫たちの世代に、より明確に受け止められることになるだろう。

【新憲法試案・新設条文】
(環境権、環境を保全する義務)
第■条
何人も、健康かつ快適な環境を享受する権利を有し、その保全に努める義務を負う。
国は、環境の保全及び改善に努めなければならない。

名誉・プライバシーの保護  
複雑にからみあう現代社会では、人権に対する侵害や抑圧は、国家権力によって行われるとは限らず、むしろ、日常の社会生活のなかで、マスコミやインターネットなど民間の経済活動によっても行われる可能性がある。  情報化や国際化、高齢化が進む現代では、私たちひとりひとりが他人を尊重することを重要視しなければならない。表現の自由を盾に取った名誉・プライバシーの侵害に対抗しやすいように、名誉とプライバシーも人権として保護されるべきである。  最近の社会の動きのなかで、これは特に行き過ぎだなと感じることの一つに、報道の在り方があり、個人のプライバシーの保護の問題がある。  マスメディアが高度に発達したために、写真週刊誌などで、個人の私生活がいとも簡単に暴露され、瞬時に広範な人の目に触れるようになっている。この傾向が加速すれば、個人の尊厳を脅かしかねない。  本来、個人には「自分の私生活をみだりに公開されない」という権利がある。  ただし、政治的あるいは社会的に重要な問題とされる場合には、この権利が一定の制約を受けることはやむをえない。ここで、「表現の自由」との衝突が起こり、調整が必要になる。  現在、個人の名誉は刑法、民法という法律でその保護が認められている。これに対してマスメディアから主張されるのが「表現の自由」という憲法の規定である。この両者の主張を比べてみると、名誉の保護が憲法の下位に位置する法律でしか認められておらず、人権の保障として十分とはいえない。  特に、最近は、コンピューターやインターネットなどの発達により、個人情報の収集、記録、利用に関し、その保護の必要性が大いに高まってきている。このように重要性を増してきているプライバシーを守る権利を、現行憲法第十三条に規定されている「幸福追求権」の解釈から導き出すのではなく、憲法上の権利として明記すべきだと、私は考えている。

【新憲法試案・改正条文】
(プライバシーの保護)
第■条
何人も、名誉、信用その他人格を不当に侵害されない権利を保障される。
何人も、自己の私事、家族及び家庭にみだりに干渉されない権利を有する。
通信の秘密は、これを犯してはならない。

知る権利を確立したい  
民主主義の根幹は、国民が主権を行使するシステムを確保することである。国民の賢明な判断をあおぐためには、適正な判断材料が提供されていなければならない。また、行政権力の肥大化に対する有効な監視手段としても、政府あるいは地方自治体が持っている情報を、国民に公開すべきである。  これまでも「知る権利」が保障されていなかったわけではない。  現行憲法第二十一条には、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」とある。表現の自由という伝統的な自由権の規定を、情報の公開を求める権利の根拠にしてきた。しかし、それは、国民は公的な情報を知ろうとした場合、公的な権力によってじゃまされることはないという程度にとどまっている。  先進諸国では、民主主義の成熟化にともなって情報公開原則が憲法にも盛り込まれることが多くなった。スウェーデンでは一七六六年、日本の江戸時代中期、尊王論を唱えた一派を幕府が弾圧していた時代に、当時の王権を律する憲法に言論出版の自由と公文書公開原則に関する規定を制定している。  多くの国では、二〇世紀後半になって情報公開に関する法律を整備している。米国では一九六六年に連邦レベルで、デンマークとノルウェーは七〇年、フランスとオランダが七八年、カナダとオーストラリアでは八二年にあいついで制定された。  日本では、山形県の金山町と神奈川県が一九八二年(昭和五七年)に、自治体レベルのトップを切って公文書公開条例を施行したのを皮切りに、九八年までに四六の都道府県、五〇〇以上の市区町村で条例化され、残りの自治体のほとんどが要綱のかたちで整備した。  国レベルでも、二〇〇一年四月から施行される「情報公開法」によって、実質的な「知る権利」は法律上、整備されたが、現在のところ政府の説明責任を果たすという観点が強く、私はこれで十分だとは考えていない。  現代社会では、「知る権利」には、もっと積極的な意味がある。  情報化時代においては、国家や自治体にさまざまな情報が集まる。それにともない国家秘密も増大するという社会状況が生じている。私たちの生活にとって必要な情報の公開を求め、そのことによって政治にも有効に参加できるようにしなければならない。  政府の持っている情報は、国家の主権者である国民のものであるはずだ。しかし、国家の安全保障に関する情報のように、その公開が国益を著しく損なうおそれがある場合は、一定の制約を受けることになる。いずれにしても、政治や行政への信頼を確かなものにするために、曇りのない情報公開制度を確立することが必要である。  近未来においては、さらに一歩進んで、公的情報の保存を義務づけ、一定期間を過ぎたものは原則すべて公開する制度が検討されるようになるのではないか。  かつては電話などで通達や行政指導が行われており、公文書として残らないまま放置されてきたことがあった。一九九三年(平成五年)に行政手続法が成立し、書類で通達などを行なうことが原則となった。また、公文書の保存が義務づけられるようになり、情報公開法によって「請求すれば」原則として公開されるところまで来た。このことにより、政治や行政に携わる者は、現在の国民に対してだけでなく、後世からの審判をも意識して、責任ある判断を下すようになることが期待できるのではないか。また、日本の歴史を正しく残すことにも貢献することになる。  「知る権利」が憲法に明文化されれば、民間企業や団体であっても、公益性が高く、政府の関与が強い組織は、透明性・公開性を保つことが当然の責務になるだろう。

【新憲法試案・新設条文】
(知る権利)
第■条
何人も、法律の定めるところにより、国及び公共団体等に対して、その事務に係る情報について、開示を求めることができる。

社会権の充実  
現行憲法では、社会権として、第二十五条における生存権のほか、教育権、労働権などを認めている。このなかで、第二十五条第一項は、すべての国民に「健康で文化的な最低限度の生活を営む」国民の権利を保障し、第二項で「社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進」に努めるべき国の義務を定めている。  私たちは、これから、かつて経験したことのない高齢社会に入ることになる。その長い人生のなかで、病気、障害、失業などさまざまな危険にさらされ、いつ何時、現在の生活基盤を失うかもしれない。私は、拙著「二〇一〇年 日本実現」のなかで、年金、失業保険、医療保険などのセーフテイ・ネットを整備して、ヒューマン・セキュリテイを確保することの重要性を指摘した。第二十五条第二項の趣旨は、このようなヒューマン・セキュリテイを確保するシステムを、将来に向かって安定的に構築することではないだろうか。  また、社会の進展にともない「健康で文化的な最低限度の生活」の内容が変わってきている。  国民のほとんどが中流意識を持っている現代、高等学校への進学率が九〇%を超えるなかでの教育権の保障や、完全失業率が比較的低いレベルでとどまっている日本で、労働の権利を認めることは、国民の権利の保障において、以前と同じような比重ではないように思う。  社会権は、国民の幸福のために、国家が積極的に宣言し、その実現を約束するものである。新しい憲法では、これまでのような最低限度の生活の保障にとどまらず、さらに進めて現代社会に対応した新たな分野にひろげるべきではないだろうか。  たとえば、環境の汚染により、健康に被害が出ることを防止することや、国民みんなの財産である歴史的な遺産が保全されるようにすることについても、新しい憲法に新たな条文を置きたいと考えている。

【新憲法試案・新設条文】
(文化等を保護する義務)
第■条
国は、景観及び歴史的、文化的、芸術的財産の保護、育成を図らなければならない。

自立した国民を育てる教育  
現行憲法では教育について第二十三条において「学問の自由」を保障し、第二十六条で「教育を受ける権利」と「保護する子女に教育を受けさせる義務」と義務教育が「無償」で行われることを規定している。  憲法制定当時の時代背景として、子どもに教育を受けさせるより、労働力としての役割のほうを期待する傾向が見受けられた。したがって、子どもが教育を受ける権利を明確にするため、親の義務として「教育を受けさせる義務」を規定したものと考えられる。国民に義務を課す限りは、国家として環境を整える必要があり、小中学校の九年間の義務教育を設ける根拠となった。  その後、社会状況は大きく変化している。  これからの自立した国民が主体となるべき時代においては、義務教育の期間に自らが社会の事象について考え、対処するための基礎知識を得ることが必須となる。あるいは「個人と社会」や「権利と義務」といった社会性についての基礎的な教育を受けることが、本人の自立のためにもきわめて重要だと考える。  さらに良好な地球環境を子孫のために残すこと、多様な価値観を持つすべての国民が幸せな生活を送るためには、思いやりの心、あるいはボランティア活動の重要性などについて、家庭教育だけでは十分な教育ができず、学校教育に負う面も多い。  このようにきわめて重要な国民の教育について、多様な価値観を持つ国民の要望に応えるには、画一的でない多様な特色を持った教育機関が存在することが望ましい。  その意味で、私学が果たす役割はきわめて大きい。現行憲法第八十九条の私学助成を禁じている規定を改め、特定の人々の利益のためでないことや情報公開されていることなど、法律で定めたある一定要件を満たした場合には、私学への助成を可能にすべきである。これについては「第四部 五、公金支出規定の矛盾」で触れることにしたい。  

四、豊かで活力に満ちた社会の実現

市場原理を生かす「営業の自由」
二十一世紀の日本を、活力ある国家とするために、自由競争と自己責任原則を基調としつつ、他者や自然と共生する「日本型競争社会」を構築することが私の政治テーマである。  現行憲法では、第二十二条で「職業選択の自由」、第二十九条で「財産権」という経済的自由権を保障している。これらの経済的自由権については、経済的弱者、社会的弱者の保護という政策を実現するため、「公共の福祉に反しない限り」という制限が認められている。  さらに、今日では、経済そのものの安定や発展のためという経済政策的な視点から、あるいは所得の再配分や経済秩序の形成のために、政府による経済活動への規制が増大してきた。このやり方は、一時期「護送船団方式」と呼ばれ、外国からも批判の対象となった。  活力ある経済社会を実現するためには、できる限り自由な競争を認め、市場原理を機能させる規制改革を実現しなければならない。自由な競争秩序を守るための規制は許されるが、競争制限・参入制限的な規制は原則認められないというルールを徹底すべきだ。  欧米の憲法にはこうした精神が盛り込まれている例が見られる。たとえば、イタリア憲法では「私的な経済活動は自由である」とされ、「それは、社会の利益に反して、または安全・自由、人間の尊厳を害するような方法で、発展させることはできない」としている。経済がますますグローバル化するなかで、個人や企業の経済活動の自由を認める根拠を、憲法に示すことが求められているのではないか。  私は、現行憲法の「職業選択の自由」に、これまでは解釈で含まれているとされていた「営業の自由」を独立した条文で明記したい。

【新憲法試案・改正条文】
(職業選択・営業の自由)
第■条
何人も、公共の福祉に反しない限り、職業選択及び営業の自由を有する。

公正な手続きで権利の保護を  
現代社会が大きく変わるなかで、国民生活に関わる行政の役割が、ますます重要性を増してきている。これまで社会のいろいろなところで見られた国家、特に行政の護送船団方式による規制は撤廃されつつある。社会秩序を守るために必要な規制を行う場合には、人権を尊重し、平等性、公平性を確保するために、適正な手続きを踏むことが求められる。  私は、新しい時代にふさわしい権利の整備と、その保護の必要性を主張してきた。新設すべき新たな権利に限らず、国民の権利をいくら憲法上で規定しても、その実現を保証するための手続き規定が整備されていなければ、その保護が十分だとはいえない。「手続きなければ、権利なし」は、大学の法学部の学生が最初に教えられる言葉だそうだが、まさにその通りだ。  行政は、結果がよければそれでいいというものではない。行政としての結論にいたる過程が、国民の十分な納得が得られるものでなければ、行政に対する国民の信頼は決して得られない。人々の価値観が多様化するなかで、行政運営の公正なこと、妥当なことを国民に信頼してもらうためには、適正な手続きによっていることが最も重要であり、有効である。  ところで、現行憲法で、人権の保障に関する手続きについて定めているのは第三十一条だが、ここで定めているのは刑事手続きについてでである。ここにも現行憲法が背負っている歴史的な経緯が感じられる。近代までは、人権に対する国家からの侵害で一番大きなものは、国家による刑罰権の発動だった。  現行憲法は、明治憲法下、特に太平洋戦争の末期に、刑罰権が恣意的に濫用され、一種の恐怖政治が行われた記憶が鮮明ななかで制定された。そのため、現行憲法第三十一条から第四十条まで、憲法全体の約一割が刑事訴訟に関する規定となっている。これほど刑事訴訟についての細かな規定を持つ憲法は、世界的にも珍しい。立法当時、「刑事訴訟憲法」と揶揄されたのもうなずける。  今日では、人権の侵害を引き起こすおそれは、国家の刑罰権のみではない。行政による権利侵害の危険から、国民をどう守るかが、国民の大きな関心事であり、立法者である政治家の使命である。一九九三年に行政手続法が制定されたが、法律の適用除外が多過ぎるように思う。たとえば、街づくりの計画策定手続きなどは対象になっておらず、国民参加の視点がほとんど抜け落ちている。  自立した国民による国家運営の観点から、憲法に適正な手続きの保障をしっかり置かなければならない。新しい憲法には、「行政手続きは適正でなければならない」という一項をぜひ加えておきたい。

【新憲法試案・新設条文】
(適正手続き)
第■条 行政手続きは適正でなければならない。

五、民主国家を支える国民の役割

独立国家の前提
主権国家として独立を堅持しようとすれば、その国民は、当然、国家の安全を守る気概を持たなければならないと、私は考えている。国家の独立を守る人は、その国民しかいないからである。  第二次世界大戦後の日本では、一時期、自衛隊の存在をいわゆる「日陰者」扱いにするほど国家の安全に対する意識が低下した。また、日米安全保障体制に過度に依存する姿勢を見せ、米国側から「安保タダ乗り論」を言われる始末だった。  かつて約二〇年前に、私が防衛政務次官を拝命し、防衛問題に取り組んでいた際に痛感したのは、まず、国防の基本は、国民ひとりひとりが「自らの国は自らの手で守る」という気概を持つことである。それにもかかわらず、自由と安全は無料だと思っている国民が多いことであった。  総理府の世論調査によれば、自衛隊や防衛問題への関心は、約二〇年前は「関心がない」が過半数で、「関心がある」方がやや少数派だった。それが最近では逆転して「関心がある」方が多数派になった。  その一方で、外国から侵略された場合について問われれば「何らかの方法で自衛隊を支援する」、「自衛隊に参加して戦う」、「ゲリラ的な抵抗をする」という積極派は若干増加したものの、依然として「武力によらない抵抗をする」、「一切抵抗しない」という消極派が三〇%程度存在する。国家を守る気持ちについては「強い」が減少し、「弱い」がむしろ増え、両者相半ばしている。  民意は大切だが、やはり国民の間に、国防が国家の存立に不可欠だとの認識が薄いことについては、率直に言って懸念を抱かざるを得ない。  だが、それで諦めているわけではない。あるべき方向に国民をリードしていくのは、まさに政治家の使命だからだ。

国を守る意志の統合
国を守る義務に、徴兵制を含めないことは、既に「第二部 国民の手で守る日本」の最後で触れたとおりである。防衛義務を果たす形態として、国防組織に強制的に参加させる「徴兵」という以外に、方法はないのだろうか。  明治憲法においては、「日本臣民は法律に定むる所に従い兵役の義務を有す」と規定されていた。もちろん、戦前の体制に戻れといっているのではない。私が目指している「品格ある国家」づくりにおいては、自立自尊の精神に基づき、社会に対する個人の責任や義務を果たしていくことが不可欠である。国民それぞれが尊敬を受けるに値する行動を行うことがなければ、その集合体である国家が、世界から尊敬されることはあり得ない。  その意味で、国民ひとりひとりが、国家の安全のために何ができるのか、何をするべきか、を考えてほしい。国防組織の一員として働くことだけでなく、当然、それに代わる方法があってもいい。たとえば、自ら正しい国防意識を持ち、国防組織の行事に積極的に参加してモラール・サポートすることや、民間外交を通じて、周辺諸国の国民との文化的交流を深め、国境を越えた友情を築くとか、いろいろな方法があると思う。  国民が何らかのかたちで、国を守る義務を果たすことによって、日本という国家との一体感を抱くことができ、かつ、共同体の構成員としての自立した「個」が育成されることを期待したい。  私は何も国家主義を標榜しているわけではない。国民の国を守る意志は、抽象的な文言だけで統一されるものではなく、国民の日常活動を通じて獲得、体得されると信じるからである。

国を守る義務の明記
諸外国の例を眺めてみると、徴兵制度を採用していても、兵役を免除される場合に課される他の役務を定めているところもある。  たとえば、ドイツ兵役義務法では、一定の要件を満たす者は、平時、民間代替勤務法に定められている期間、民間代替勤務を遂行すれば、兵役には召集されない、と定めている。  また、フランスでは、祖国防衛のため必要になれば再開することになっているが、現在、徴兵制度は中断されている。志願制の下で、国民は「防衛、安全保障及び予防措置」、「社会的結合及び連帯」、「国際協力及び人道援助」の三分野のいずれかの役務を選ぶことができる。国民は、これらの活動を通じて自らの属する国家を意識することとなる。  各国憲法における国を守る義務の規定はさまざまだが、いずれにしても憲法には根拠となる規定を置き、細かな内容は法律で定めている。  したがって、新憲法に関連条文を盛り込む場合は、細部まで具体的に記述する必要はない。  私は、国家の緊急事態に、政府の施策に国民がどのような協力を行うべきかを議論し、国民の幅広い理解を得ながら、まず、基本的な考え方を新憲法に示すことが重要だと考えている。そのうえで、まさに民意を反映したかたちで有事法制などの関連法律を整備し、義務の具体的内容、条件などを定めていくことが適当である。 大切なことは国民の国家に対すると帰属意識と運命共同体の一員としての連帯感を高めること、なのである。

【新憲法試案・新設条文】
(国家の安全を守る義務)
第■条
国民は、法律の定めるところにより、国家の安全に寄与する義務を負う。