【第一部】 国のかたち

一、私が考える憲法のかたち

【現行憲法・前文】  
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。  日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

新しい憲法にはどのようなことを規定するか  
憲法が規定するのは、「国のかたち」であり、「国家目標」ということになる。そこに何を盛り込むべきなのか。

現在の「国家の在りよう」に何かプラス・アルファーを盛り込むことを考える向きもあるが、私の基本的立場を言えば、「国家のあるべき姿」を徹底的に議論し、国民のコンセンサスを得て、憲法に明記すべきだということである。

その前提として、国家という単位をどう考えるか。  二十一世紀において、国家という組織の単位が消滅する事態は、まず考えられない。これまで取りざたされてきた「世界連邦」構想が空想の域を出ない以上、現在ある一九〇以上の国家が国際社会を構成し、平和裡に共存関係を維持していく努力を行うという状況に、大きな変化があることも想定しにくい。  となれば、二十一世紀の世界は、引き続き国家という枠組みが基本軸となる。そして憲法をめぐる議論は、時代の変化を見通しながら、

(一)国家と国民の関係(国益と国民益との調整)
(二)国会(国権の最高機関)と国民の関係(間接民主主義のシステム)
(三)国家と国際関係(国益と国際益との調整)

などを整理し直し、それを改正憲法にどう明文化するかという内容でなければならない。

まず、国家と国民の関係について考えてみよう。  
国家と国民が対立概念ではないのは言うまでもない。日本国民は、日本国の主権者であり、国家の意思を最終決定する関係にあるからだ。
前文に「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうに」とあるが、この場合の政府とは国家の代名詞であり、国民の意志とかけ離れた国家意志の存在を意味しているようだ。このくだりは、国家の存在を否定的に捉えるか、あるいは、国家の役割を消極的に捉えているとも言える。

現行憲法は、西欧近代思想の文脈を受け継いでいる。たとえば「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない」(第十八条)といった記述があらわしているように、国家は専制的で、個人の権利を侵害するものだという考え方が前提になっている。 これからの憲法論議は、専制国家からの解放といった視点から脱却し、民主主義に立脚している日本という国家のあるべき姿を追求し、国益と国民益の関係をどう調整するかという観点から考えるべきだ。たとえば、表現の自由が重視される反面、プライバシーの侵害など、国民がほかの国民の基本的人権を侵害するケースも珍しくなくなった。「共生」という観点からも、国家に国民個人間の権利を調整する機能を持たせるべき時期に来ている。

次に、国会と国民の関係を考えてみよう。  
統治機構として議会制民主主義のシステムを、改めて国民に正しく認識してもらう必要がある。国民は自らの水準以上の政府を持つことができない、という自覚が必要だ。

第三の国家と国際関係について考えてみよう。  
現行憲法前文にある「国際社会において、名誉ある地位を占めたい」という国民の志向を表明することに異論はない。しかし、現行憲法のどこにも、独立の堅持について自らの努力の決意が示されていないことに、違和感を感じないではいられない。決意らしきものと言えば、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とあるだけだ。第二次世界大戦後、占領下で制定された憲法だからだろうが、独立国家の憲法としては重大な欠陥があるように思う。  「政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる」というくだりは、国家の主権と独立よりも上位の、何かがあることを示している。  国家を超えた普遍的価値があることは否定しない。一部に「国家不要論」という極論さえあることも承知している。最近は、国連においても、加盟国の主権を守るという本来の使命を超え、民主主義や人権主義という普遍的価値の実現を加盟国に求める傾向にある。米国政府がミャンマーの反政府勢力のアウン・サン・スー・チー女史の人権を守れと、ミャンマー政府に圧力をかけているのもその典型例である。  しかし、現実には国家は厳然として存在する。ミャンマー政府にすれば、内政干渉であり、国家主権の侵害だということになる。普遍的価値と言っても、国家がそれを保証しなければ、現実のものとならない。

権利と義務は表裏一体である  
憲法上の国民の権利と義務についても、時代や国民の価値観の変化に合わせ見直すべきである。権利と義務は、表裏一体である。いずれも国民が国民であるための基本的な要件であり、憲法は双方のバランスを示すものでなければならない。  ただ、ここでは「公」と「私」、あるいは全体と個の関係を整理する必要がある。たとえば、東京国際空港(成田空港)建設反対の一坪地主は、その所有権を主張することは、憲法違反ではないということになっている。もともとそこに居住していた地主の権利については、一定の理解が得られそうな気がするが、反対のために地主となった人の「私」の権利は、明らかに「公」の利益に反するのではないだろうか。  「公」の利益は、憲法でいうところの「公共の福祉」だが、私は「公共の利益」としたほうがわかりやすいと思う。「公共の福祉」というと、個人にメリットが直接還元されるというイメージの「福祉」を連想しやすく、誤解や拡大解釈を生んでいる。  権利と自由には、義務と責任が内在する。行き過ぎた自己中心主義、はき違えた個人主義は、私たちの社会のまとまりを危うくするものであり、公共の利益に反する。

それでは、公共の利益を計る尺度は何か。  
私は「最大多数の最大幸福」の考え方に基づき、私有財産権とのバランスを十分考慮しながら判断すべきものと思う。そして、基本的に、その判断は国権の最高機関である国会において行われるが、個別のケースについての審判は司法の場にゆだねられることになる。 国家という単位の重さ  国家という単位と国家同士の国際関係はどう考えればいいか。  二〇〇〇年夏の九州・沖縄サミット(主要国首脳会議)は、IT(情報技術)革命をうたい、ディジタル・ディバイド(情報格差)を克服するという世界的課題を確認した。  今後も、それぞれの国家同士が国家主権に関わる問題だけではなく、経済などのさまざまな分野について、同一レベルで交流することが求められる時代が続くだろう。国家という単位は、その意味でも有効であり、グローバリズム(地球主義)とも矛盾しない。  また、国家という単位は、民族主義とも共存が可能だ。二〇〇〇年秋のシドニー・オリンピックをテレビ観戦していて、改めて認識したことがある。米国など多くの国々の選手団は多民族で構成されている。単一民族で構成される国家の方がむしろ少ない。  地元・オーストラリアの先住民族・アボリジニ出身のキャッシー・フリーマン選手が陸上競技のヒロインになった。彼女は民族の誇りを全身にみなぎらせて、風のように走った。  実際に、彼女の心のなかにどのような思いがあったのかは想像の域を出ない。だが、いずれにせよ、表彰台に立って、国旗を見つめ、国歌を口ずさむ彼女の姿には、自らの民族が属する「国家」への忠誠が明確に表現されていた。「国家」を超える「民族」ではなかった。  オリンピックは国家や国旗を超えたスポーツの祭典で、その精神はクーベルタンによって「参加することに意義がある」と説かれている。しかし、参加した選手たちが国家の名誉を担って戦ったのは間違いない。金メダルを獲得した選手が表彰台に立ち、国旗が掲揚され、国歌が吹奏された時、その選手の母国の国民は感動に浸りながら、疑いもなく国家という単位に帰属する自分を受け止めていたはずだ。オリンピックが二十一世紀に引き継がれるならば、選手が戦い、競い合う単位はやはり国家しかないだろう。  ただ、国家も不変の存在ではない。幾多の大帝国が歴史の彼方に埋もれてしまったように、国家にも「栄枯盛衰」がある。二〇世紀後半と二十一世紀では、日本の国力は、絶対的にも相対的にも変わっていく。国民の価値観も変わる。  私たちに求められるのは、有為転変の歴史のなかで自らの道を切り開いていくことである。  今、国家のあるべき姿、日本の在り方をもう一度見直し、国家基本法たる憲法を見直す時期が到来している。

二、新しい時代の「共同体のきずな」

二十一世紀のアイデンティティをどう考えればいいか  
二十一世紀を迎え、さまざまな時代変化を背景として、日本は、歴史と伝統、固有の文化(死生観、宗教観を含む)、礼節や信義、社会奉仕の精神といった日本人のアイデンティティをどう守り、後世に伝えるかというテーマに直面している。  優秀な学者や技術者,ビジネスマンなどの国際移動が普遍化し、少子・高齢化の進行による労働力不足によって外国人労働者の移入も予想される以上、いずれ日本も多民族国家へ変貌するのは不可避ではないだろうか。今後、日本国籍を取得しようとする外国人が、増加する傾向にあるなかで、日本国民としてのアイデンティティをどう形成するのか。  
どのような履歴や出自であっても、国民としての資格を持てば、日本の主権者の一人である。その際、おそらく「共生」という価値観が重視されることになる。一方、国家のあるべき姿を体現する憲法を見直すに当たって、とりわけ重要になってくるのは、その多様な国民が、国を守る義務や国家への忠誠、国家や同胞を愛する心などという国家を構成する一員としてのアイデンティティをどうつくりあげ、どう育てるかという問題だ。  これまでアイデンティティは「自己同一性」とか「帰属意識」と訳すケースが多かったように思う。要するに「自分は何者か」ということだ。多様な民族と国家との関係の意味合いから考えれば、私はアイデンティティを「共同体のきずな」と訳すほうが適切だと思う。

日本独自の文化や伝統に根ざして  
国家という共同体を一つのまとまりとして保つ「きずな」は、国家によってさまざまで、民族、宗教、伝統文化、イデオロギーなどその国家の歴史と切り離せない密接な関係があるものである。  日本の場合、これまで「天皇制」、「皇室の存在」が非常に大きな役割を果たしてきた。  現在の象徴天皇制は、歴史的に見ると、むしろ本質的で、本来の姿であると思う。明治維新以降のような天皇主権制こそ例外であり、これが軍部による皇室の政治利用を生み、結果的に弊害をもたらしたと言える。象徴天皇の存在は、引き続き、他国に例を見ない国民統合力として貴重なものであり続けるだろう。  日本民族だけなら皇室への敬意が、そのまま国家の統合力になり得ると思う。しかし、、今後、多民族国家を前提にアイデンティティを捉え直す場合、かつてのいわゆる「大東亜戦争」を日本と戦ったアジア諸国の出身者には、複雑な天皇観が残っているかも知れない。  新たなアイデンティティとして、たとえば、改正憲法、国旗・国歌などを改めてクローズアップするなど、多民族国家らしい国のかたちが求められる時代がくる。日本国民のなかに、そのルーツを明らかにした「新しい日本国民」が登場することは必至だ。  移民によってかたちづくられた米国には、「日系アメリカ人」や「アフリカ系アメリカ人」が立派に国籍を有し、愛国心を持って生活している。日本にも、韓国系日本人や中国系日本人が、原住民族である「ネイティブ・ジャパニーズ」と共生する日がくるのではないか。  新たに日本に国籍を移し、日本を愛し、ネイティブ・ジャパニーズとともに生きる人々への配慮は必要だろう。そのうえで、日本の歴史と伝統、固有の文化、美しい国土、礼節や信義、そして社会への奉仕を大切にしていくという国民精神を育てたい。  また、これに関連して、外国人地方参政権問題がこのところ提起されている。在日の外国人にも一定の参政権を認めようというものだ。地方に限定すると言っても、地方自治には日米防衛協力の指針(ガイドライン)関連の協力や、警察活動などの公権力行使が含まれており、憲法に定められた国家組織の一部である。  参政権は、国家運営に関わる国民の基本的な権利であり、国籍と密接不可分なものである。永住しているかどうかにかかわらず、外国人に選挙権を与えることには、改めて反対したい。この問題は、日本国籍取得の要件や手続きを緩和することで対応すべきだろう。

三、国際国家日本の安保政策

平和主義を貫く
現行憲法の前文では、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と規定している。  いかにも平和が国際社会で確立された前提であり、それに日本が身をゆだねるという言い方になっている。しかし、もし文字通りに対応すれば、自国の平和と安全すら保証されないのが現実である。国家の主権と独立を堅持するためには、自衛権を行使する決意をはっきり示すべきである。  国際連合の超国家的機能は、冷戦当時は常任理事国(米・露・英・仏・中)の拒否権によって損なわれ、冷戦が終結した現在も、依然としてその機能を十分に発揮していない。  二十一世紀においても、憲法論議の重要なテーマの一つが安全保障に対する基本的考え方であることは間違いない。まず、私の考え方を簡潔に整理し、具体的な方針を示しておきたい。  新しい憲法に盛り込むべき安全保障の考え方は、次の三点である。  

第一に、平和主義を貫くこと。  侵略戦争は決して行わないという意思表示のため、戦争放棄の規定は残すべきである。ただ、この原則が、いっさいの安全保障の手段を凍結したものと拡大解釈されないよう配慮しなければならない。

第二に、自衛のため、および国際安全保障のため、陸海空、その他の軍事力を持つことを明記する。  つまり、国防組織の存在を憲法上、きちんと認知する。これによって、「集団的自衛権」の行使も認められることになる。ただし、集団的自衛権の行使は日本独自の安保政策として、当面、日本の平和と安全に重大な影響を与える周辺事態などに限定してはどうか。

第三に、国防組織に対する内閣総理大臣(首相)の最高指揮権を明記し、シビリアン・コントロール(政治の軍事に対する優越性)を確立する。  これらを踏まえ、日本の国防組織の位置づけや役割などを憲法できちんと定め、日本の姿勢を明確に示せば、日本の再軍備を懸念するアジア諸国も説得できるはずだ。日本の安全保障政策は、従来から、決して軍事大国とならず、専守防衛に徹し、非核三原則を守ることを前提としてきた。この方針は今後も堅持したい。核兵器や空母、ミサイルを持つ軍事大国に、日本の国防の在り方についていろいろなかたちで牽制されても、日本の立場や主張を貫くべきだと思う。

「国際貢献」を世界に発信しよう  
安全保障の観点から現行憲法を見直す際に、特に重要な視点として、国際国家日本としての「国際貢献」を挙げたい。人的な国際貢献を行う場合、自衛隊(軍隊)や警察などの組織が主軸になるのは言うまでもない。  
「平和主義」を掲げているのだから、国際平和に対して受け身であることは許されない。平和のための国際貢献を、十分に行うことができない現在の状況は改めなければならない。平和は自力で勝ち得るものであることを明確にするとともに、そのための国際貢献を果たすことを、はっきりと意思表示すべきだと考える。  
国際貢献のため、国連の平和維持活動(PKO)などに、積極的に参加するという日本の方針を世界に公言し、国民ひとりひとりがこれを認識するため、積極的な国際貢献と国家間の共存共生への意志を憲法に明記したい。

四、「道義国家」への道

どう立て直す日本
日本は二十一世紀に衰退の一途をたどるおそれがあると言われている。私自身、あえてそれを否定する根拠も自信も、今はない。  二十世紀末の日本人は、国家目標を失い、まさに「さまよえる日本人」と化している。このところの政官界の不祥事はもとより、各種企業犯罪、頻発する少年犯罪、幼児虐待などには、モラルの喪失という段階を超え、日本という社会が壊れていくという感覚にさえ襲われた。 また、最近、全国各地の成人式が新成人の権利のはき違えによって混乱を極め、成人式そのものの存在意義が問われている。突飛な言動に走る若者や少年たちが、その結果生じる悪影響や犠牲に対し、あまりに無頓着なことに驚かされる。私たちは、若い世代の社会性の欠如について、若気の至りとか、大人になり切れない幼児性の発露といった論評を加えているが、そこには底知れない深刻さが潜んでいるように思われてならない。 日本はここからどう巻き返せば、いいのだろうか。  それには、これまでの「経済大国」に代わる国家目標を定め、それを国民がしっかりと共有する必要がある。私は、それを憲法改正を通じて設定すべきだと考えている。 これに関連しては、一九九九年秋の自民党総裁選挙に立候補した際、「品格ある国家、活力ある経済、安心できる社会」を機軸に政権構想をまとめた。こうした政策を実現するための国家の仕組みが憲法改正の成果にならなければならない。  具体的に目指すべき国家をイメージしてみよう。  内にあっては、社会が公徳心、社会奉仕の精神に満ちあふれ、国民が礼節や信義を重んじ、他人に対するやさしさを身につけている。国家が国民の権利を侵害するという考え方が払拭され、国民それぞれが個人の権利を守り合うために国家があると感じ、公共の利益、社会全体の利益を軽んじない、ということになる。  たとえば、誰もが、高齢者や障害を持つ人々、妊婦などに席を譲る社会になれば、電車のシルバーシートなどは不用となる。ところが、現実はどうか。 先日、韓国の福岡総領事が帰任する際の講演で、「私は日本で乗り物に乗っていて、席を譲られたことは一度もない。ところが、韓国に帰ると、皆、席を譲ってくれる。私は、日本では若く、ソウルでは年寄りに見られる」と述べ、日本社会のモラルの低下を皮肉ったという。

求められる意識改革  
この日本社会の立て直しを図るには、相当な意識改革が必要だ。  提案が一つある。

今、教育改革の一環として、小中学生と教師に奉仕活動を義務づけようとする議論がある。私は、奉仕とは本来自発的に行われるべきものであり、義務化するのはどうかと思う。しかし、社会の空気を変えるには、こうした奉仕活動を、企業のサラリーマンを含む社会人全体に広げ、大人が率先垂範する国民的な運動も必要かもしれない。自分のことしか考えない「一人幸福主義」からの脱却を、大人が手本となって子どもたちに見せるのである。  一方、外にあっては、「一国平和主義」を脱却し、ヒトもカネも出して、国際平和を守るとともに、政府開発援助(ODA・Official Development Assistance)によって開発途上国の経済発展を支援する。国民は、平和維持活動に従事する者に敬意を払い、精神的にバックアップすることになる。  湾岸戦争(一九九一年)の際、日本は多国籍軍に自衛隊を送らなかったために、多額のカネを拠出したにもかかわらず、当事国のクウェートからさえ感謝されなかった。  今後、目指すべきは、国連決議に基づく安全保障活動に参加するために、海外においても輸送、補給、医療、通信などの分野で後方支援するということだ。  国際貢献のため、世界平和のための集団安全保障活動に参加することは、責任ある国家として当たり前のことだ。ただし、その参加に当たっては、国家の政策として一定の限度を設け、日本国民が平和国家を目指していることを明確に示しておかなければならない。  また、ODAについては、近ごろ見直し論議が盛んだ。これは民主化が進まない、人権を抑圧している、軍拡路線を走るといった国を対象としている。たとえば、中国は日本のODAにどうも感謝していないように思われるし、国防予算を一三年連続で一〇%以上伸ばしているなどの問題がある。日本からの経済援助が、本来の正しい平和的な目的に使われ、その国家の民主主義の発展や生活水準の向上につながるならば、費用対効果も考慮したうえで続行することとしてもいいだろう。ODAというのは、国際的に富を再配分する機能を持ち、先進国と開発途上国との共存共栄を図る機能も持っているからだ。

新しい文明の創造  
こうした新しい国家目標の設定は重要だが、それに向け、どう「連帯」と「共生」を誓うかという問題は、より重要かも知れない。  その前提が自立した個の確立にあるのは言うまでもない。だが、個が「一人幸福主義」に陥っていては、社会としてのまとまりが生まれるはずがない。そこで、少なくとも二十一世紀前半は、こういう国家の在り方でいこうという連帯の誓いを、憲法改正の理念にしたい。  そのためには、象徴天皇制を維持しつつ、もっと普遍的な国民の精神的バックボーンを打ち出すことが必要になるだろう。  憲法を見直すに当たっては、国民主権(民主主義)、基本的人権(人権主義)、平和主義という現行憲法の三原則は、当然、引き続き堅持すべきものと考える。  国家の意思を決定する主権者は「国民」である。いまやグローバルな価値観となった「基本的人権」を侵すことができないのも当然だ。国家の枠を超えた「平和主義」も広く国民に受け入れられている。  この三原則を踏まえ、新たに、内にあっては礼節や信義、そして「社会奉仕の精神」、外に対しては「国際貢献」という道徳性の高い国民精神をうたうことで、日本という国家とその国民が「一国平和主義」や「一人幸福主義」から脱却し、それぞれ世界のため、社会のために貢献する姿勢を表明したい。  これを体現する国家像を「道義国家」と呼んではどうか。  「道義国家」を目指す日本人の活動は、新しい文明の創造ともいうべき作業になるはずだ。これについて、全国民的議論を起こし、国民合意のうえで、憲法前文に盛り込むことを提案したい。私が考える新しい憲法の理念は、国家としても、国民ひとりひとりとしても、自己中心主義でなく、やるべきことをやる、「道義」を重んじる、ということである。

【新憲法試案・改正条文】(前文)  
日本国民は、日本国の最終意思を決定する主権者である。国政は、正当に選挙され、国民の信託を受けた代表者によって担われる。  日本国民は、世界の平和の維持に努め、積極的に国際貢献を果たす。日本国は独立を堅持し、国際社会の一員として平和主義を貫き、国家間の共存関係を追求する。  日本国民は、基本的人権が尊重され、活力に満ち、安心できる社会を目指す。権利は義務を伴い、自由は責任を内在する。自立した国民間の権利は、時に、公共の利益の観点から調整される。  日本国民は、共生の理念を重んじ、日本の歴史と伝統、固有の文化、美しい国土を大切に守り育て、自立した個人として社会に奉仕する精神を発揮する。  日本国民は、連帯してこうした「道義国家」の実現を誓う。  日本国の最高法規として、この日本国憲法を制定する。

五、新しい憲法の第一条に「国民」と「天皇」を書く

【現行憲法・第一章 天皇】
第一条
天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

第二条
皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。

第三条
天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。

第四条
天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。 天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。

第五条
皇室典範の定めるところにより、摂政を置くときは、摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には、前条第一項の規定を準用する。

第六条
天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。
天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。

第七条
天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
一、憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
二、国会を召集すること。
三、衆議院を解散すること。
四、国会議員の総選挙の施行を公示すること。
五、国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び  公使の信任状を認証すること。
六、大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。
七、栄典を授与すること。
八、批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
九、外国の大使及び公使を接受すること。
十、儀式を行ふこと。

第八条
皇室に財産を譲り渡し、又は皇室が、財産を譲り受け、若しくは賜与することは、国会の議決に基かなければならない。

【現行憲法・第七章 財政】
第八十八条
すべて皇室財産は、国に属する。すべて皇室の費用は、予算に計上して、国会の議決を経なければならない。 「共同体のきずな」としての天皇  国民主権が我が国の基本原則であることは言うまでもない。だが、現行憲法では第一章は「天皇」から始まっている。

第一条は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴である」と規定し、「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と、国民主権との整合性が明記されたかたちになっている。  一部には天皇制が国民主権と両立するかという疑問を持つ人もないわけではない。つまり、世襲の象徴天皇制は、純理論的には法の下の平等や民主主義の理念とあいいれず、国民主権主義に適合しないという論である。  現行憲法では、こうした疑念をあらかじめ想定していたのか、皇室典範や皇室予算について「国会の議決」に基づくと定めている。このあたりに皇室を聖域と位置づけていた旧憲法下と異なり、国民主権との調和を求める姿勢が読みとれる。  敗戦前後の経緯を歴史のなかに繙くと、日本の無条件降伏に際して、天皇の戦争責任の回避とあわせて天皇制の存続が、大きな政治目的だったことがわかる。昭和天皇ご自身は、潔く責任を負う姿勢を示され、マッカーサー連合国最高司令官をいたく感激させたエピソードが残っている。  まさに天皇が、当時の大多数の国民にとって「共同体のきずな」であり、希望と復活への意欲を象徴する存在だったのではないか。  戦争中、狂信的とも言える戦い方をした日本人が、天皇の玉音放送によって大した混乱もなく、戦争を終結させてしまったことを、外国の人々は奇異に感じたに違いない。普通なら降伏後もゲリラ戦が続くと予想して当然である。だからこそ、英連邦諸国やソ連は、一足先に乗り込んだ米国の占領軍が日本国内の秩序を回復するまで、手出ししようとしなかったのではないだろうか。  ところが大方の予想に反して、天皇の玉音は、魔法のように全軍を武装解除してしまった。これを見て、占領軍が占領行政を効率的に進めていく上で、天皇の権威を有効に活用しようとしたことは疑いのない事実である。  実は、米国内においては、終戦の二、三年前から、大戦後の構想を探る段階で既に、天皇をどう扱うかが大きな問題であったようだ。天皇は敗戦国の元首だから、戦犯として訴追せよという意見がある一方で、日本人は天皇に忠誠心を抱いており、その存在がなくなると日本人はバラバラになるので、天皇の権威を統治に利用した方が得策だという判断があった。  現行憲法の制定にあたって、天皇制の存続を当然のこととしたのは、米国軍を中心とした占領軍首脳部が、日本人の「共同体のきずな」としての天皇の存在を正確に認識した証左だろう。事実、憲法制定の基本方針となった「マッカーサー三原則」、いわゆるマッカーサー・ノート【巻末資料参照】の第一原則には、「天皇は、国家の元首の地位にある。皇位の継承は、世襲である」と示されていた。  逆に、一部の勢力は、天皇制以外の何か、たとえばイデオロギーや社会体制を新たな「共同体のきずな」とするための動きを見せた。しかし、現実には、それらは当時の日本人にとって天皇制以上に強い「共同体のきずな」には、到底なり得なかった。悠久の歴史の重みを痛感しないではいられない。  さて、それでは私たちの目指す新しい二十一世紀の憲法では、天皇制をどのように位置づけるべきだろうか。日本の歴史において連綿と続いてきた天皇制。これは日本の「国のかたち」の根本にかかわる問いかけである。 国民主権を最初に謳う  今後とも日本の政治の根幹が国民主権であることに異論はあるまい。当然、天皇に政治的な役割を持たせることを考えるべきではないし、また現実的でない。  ただ天皇の存在が、少なくとも千数百年の間、覇権がどのように変遷しようと、無私の政治的権威として国民の精神的な支柱であり続けてきた事実は重い。今日でも多数の国民が皇室に対して敬愛の念を抱いている。こうした観点から、新たな憲法においても、日本文化の中心にあり、日本人の精神的支柱をなすものとして天皇制を保持すべきものと考える。  日本は、欧米におけるキリスト教、アラブにおけるイスラム教のように、宗教が法律以上の精神的バックボーンとして存在する諸国と異なり、「八百万の神」や「山川草木悉皆成仏」といった言葉があらわしているように、ゆるやかな宗教観を持つ国である。  精神的なバックボーンと言えば、小説『坂の上の雲』を書いた司馬遼太郎は、晩年、バブル崩壊後の日本人は何を精神の拠り所としていけばいいかとの問いに答えて、鎌倉武士の気骨たる「名こそ惜しけれ」の精神をあげていた。また、日本には宗教法人だけでなく、公益法人として「道徳」の普及や、公徳心の涵養を趣旨とする団体活動も多い。ともかく、日本人のアイデンティティと言える何かが必要なのは確かである。  もちろん、私は日本は「天皇を中心とした神の国」であるなどと考えているわけではない。しかし、ゆるやかな宗教観や死生観を持つ日本特有の事情こそ、日本固有の文化なのではないか。ある意味で三権を越えた統合作用として、あるいは国民の精神的なバックボーンとして、天皇制が引き続き重要な役割を果たしていくものと期待している。  新しい憲法の第一章第一条に、私は国民と天皇を書きたい。この二つは、日本という国をかたちづくるもっとも根元的な存在である。

六、国民統合のシンボル

新時代への対応 ・・・・・・・・・・・ 国旗と国歌  
忘れてならないことは、国際化が進み、他民族から日本国籍を取得する人々が増えてきた場合の配慮である。「共同体のきずな」を特定の権力が定め、国民に強要するなどということは、万が一にもあってはならない。多民族国家である米国では、星条旗や大統領や憲法など、自発的な選択によってさまざまなものが国民統合のシンボルになっている。  国家と国民の在り方の基本を規定する憲法そのものが、国民の手によって掲げられた重要な「共同体のきずな」の一つだ。先に述べた天皇制の存在が、日本の精神文化と歴史、伝統に立脚した根元的なものであるとすれば、未来への視点を加え、国民が受け入れやすい「きずな」の一つとして、国旗、国歌を示しておきたい。つまり、将来の日本が多民族国家になる可能性も見越した場合、より一般的なシンボルである国旗と国歌は、統合の「きずな」になりうる。  既に、一九九九年(平成一一年)八月一三日に「国旗及び国歌に関する法律」は施行されているが、新しい憲法には、この法律の根拠を明確に規定しておくことが必要ではないだろうか。もし、大多数の国民が望むのであれば、新たに国民歌として、国民になじみやすい歌詞とメロディを制定することがあってもいいと思う。

天皇の地位をどう考えるか  
前に述べたように、天皇が「日本国及び日本国民統合の象徴である」という現行憲法の規定は、広く国民の共感を得ていると思う。  憲法制定当時、天皇主権から国民主権への変革を、「国体」ではなく「政体」の変更と捉え直したが、その際、天皇は日本国民にとって「あこがれの中心」(憲法担当の金森国務大臣の言葉)と説明されたことがあった。また同時に「人間天皇」という表現も定着した。当時、この表現は、多くの国民の共感を得たと聞いている。  私が会長を務めている政策集団「近未来政治研究会」での議論においては「日本国民統合」を「日本国民全体」と言い換えた方がわかりやすくていいという意見があった。しかし、「共同体のきずな」としての意義付けを考えれば、現行どおり「日本国民統合」のほうがいいように思う。  ただ、「この地位は、主権の存する日本国民の『総意』に基づく」という規定は、一考の余地がある。天皇の地位は、たとえば国民投票などで国民の総意を確かめたものではなく、長い歴史に基づく世襲制だからだ。憲法の第一章第一条に天皇の地位を書こうとすると、必然的に「国民主権」を前提とした文言が必要となる。  憲法第一章を「国民」とし、その統合の象徴として「天皇」を置けば、「総意」の文言は自動的に不要となる。憲法を改正するには国会の議決と国民投票が必要であり、国民が天皇の地位について合意しなければ新しい憲法は制定できない。その合意が「総意」であるかどうかは、意見の分かれるところだろう。  現行憲法の制定過程では、国民投票は行われていない。つまり、現行憲法についての国民の総意は確認されておらず、憲法を改正する手続きを行うことによってはじめて、国民の合意を確認することができるのである。  また、日本国の元首は天皇か、あるいは総理大臣かということも広く議論されている。  国際的な常識に照らして厳密に言えば、元首は統治機能を有している。したがって、天皇は「完全なかたちの」元首ではない。しかし、その歴史的な経緯からみても言わば「名誉職的」な元首と理解してもいいのではないかと考える。  つまり、「天皇は内閣の助言と承認によって国を代表して国事行為を行う」ことによって「名誉職的」な元首としての機能を果たすと考えられる。政府見解でも「外交関係では元首」としている。現行憲法の方向を決定づけたとされる総司令部案【巻末資料集参照】にも、「社交的な君主」という言い回しがある。また、連合国軍総司令部(GHQ)の資料にも、天皇は「儀礼的元首(ceremonial head of the state)」になるという表現があったという証言が残っている。  なお、日本世論調査会のアンケートをみると、天皇を「国の元首」と考える国民は一九七五年の一三%から九八年の七%に減少している。これに対し、「国の象徴」とする率は同七一%から七五%に増加しており、象徴天皇制の定着が見てとれる。  元首に関しては首相公選制の採否とも深く関係している。私は国民の直接選挙によって選ばれた首相は、一種の大統領としての地位を得ることになり、国際常識では「元首」だと思う。その場合、「天皇は『内閣総理大臣』の助言と承認によって国を代表して国事行為を行う」として、名誉職的な元首と考えることになる。  つまり、天皇は対外的には元首としての役割を果たしており、ことさらに明示する必要がないというのが今回の結論だろう。ただ、将来、首相公選制を採用する段階では、紛らわしさを避けるために、天皇を「政治権力とは無縁の元首」と位置づける憲法改正が必要になるだろう。

女帝と退位について  
憲法についての議論からは逸脱するが、新憲法の下では皇室典範も見直すべきだと考えている。その際、「女帝」の可能性について考えておく必要がある。  現行の皇室典範では男系の皇族にしか皇位継承権を認めていない。日本の歴史を繙いてみれば、飛鳥時代の推古天皇に始まり、江戸中期の後桜町天皇まで、一〇代の天皇が女帝である。男子に限ったのは明治憲法からだ。  日本古来の天皇制のおおらかさは、明治憲法によって「神格化」され硬直化したように思う。  現行憲法にとともに制定された皇室典範は、基本的には一八八九年(明治二二年)に大日本帝国憲法(明治憲法)とともに定められた旧皇室典範を踏襲している。新旧いずれの皇室典範でも、天皇が未成年あるいは「精神若しくは身体の重患又は重大な事故により」職務を遂行できないときには摂政を置くことになっている。皇位継承についてはどこまでいっても女性は登場しないが、不思議なことに「摂政」については、三番目の順位で「皇后」が登場する。  「摂政」は実質的に天皇の役割を果たすし、天皇制の持つ日本固有の文化的要素、あるいは最近の男女共同参画社会と称される社会の変化を考えれば「女帝」は認められていい。  政府見解では、皇室典範は法の下の平等を保持した憲法第十四条に反しないとしている。その理由は「憲法第二条「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」は、皇統に属する男系の男子が皇位を継承するという伝統を背景として制定されているものなので、男系男子に限るという制度を許容していると考える」(一九九二年七月参議院内閣委員会での答弁)というものである。  前述の世論調査によれば、天皇が「女子でもいい」とする割合は一九七五年の三二%から九九年には五三%と過半を超えるまでに増加している。ただ、女帝を認める場合、皇位継承権の範囲をどこまでとするかという問題がある。現在は皇族の女性が皇族以外と婚姻すれば、皇族から離脱することになっている。この皇室典範の規定が、皇族をある一定範囲に留め、肥大化を防いでいる面がある。この点についてはさらに広く国民の議論を待ちたい。  もう一つ天皇について考えておきたいのは、「退位」についてである。  皇室典範には「退位」の項はない。天皇は崩御しない限りその地位にとどまることになっている。これも明治になってから決められたことで、それ以前には退位することが可能だった。本人の意志で退位が可能な英国王室などと比べると、きわめて非人道的に思えてならない。天皇を職業と見なしては不謹慎かもしれないが、天皇が無私の存在であることに深い敬意を抱いている一人だからこそ、「基本的人権(職業選択の自由)」を天皇にも認めるべきではないかという思いを禁じ得ない。

国事行為の「儀式」は伝統文化  
一般に天皇の行為は三つに分けられる。いわゆる「三分説」である。それは、国事行為、私的行為、それ以外の公的行為である。  天皇が国事行為を行う規定は、統治機構における政治主導の強化の観点のみから変更すべきである。  現行では、天皇に助言と承認を与えるのは「内閣」である。首相公選論については後で触れるが、政治主導の強化のためには責任の所在を明確にすべきであり、「内閣」という組織でなく、国家行政組織のリーダーである内閣総理大臣に権限と責任を与えるべきだと考える。  国事行為の規定の内容を変更する必要は、あまり感じられない。  ただ、「四 国会議員の総選挙の施行を公示すること」という規定は不正確だ。参議院議員選挙は半数改選となっており、総選挙ではないが、天皇が国事行為として施行を公示している。枝葉末節かもしれないが、「総選挙」は「選挙」に変えておくべきだ。  私的行為とは、本来、研究などの趣味、健康維持のための運動といったものである。現行では宮中祭祀も私的行為にあたるとしているが、公的行為とすべきものも多いのではないか。  公的行為には、国会の開会式に出席し、「お言葉」を述べられることや皇室外交などがある。これらの行為について憲法に規定するかどうかについては、あまり厳密に規定すると新たな事態に対応しにくくなるのではないだろうか。公的行為については、政府見解でも「範囲をこれこれのものであるというふうに決めることは極めて困難」(一九七五年衆議院内閣委員会)としている。  ただ、従来、ややもすれば外交において、皇室を政治的に利用したのではないかと思われる場合もあった。外国の要人に天皇が会われる際に、いかなる「お言葉」を発するかが内外の注目を集める。特に、過去の戦争の記憶を今なお鮮明にとどめておこうとする国々との間では、極めて繊細な問題となる。こうしたところにも、「象徴」としての存在とは言いながらも、天皇の存在の重みと伝統の深さが感じられる。  皇室の政治的利用を極力避けるように配慮することは当然である。かつて、天皇に対する「内奏」の際の天皇のコメントを公表し、これが「天皇の政治利用」と批判され辞任した閣僚がいたことが想起される。  議論の分かれるところかもしれないが、天皇制を認めるということは、皇室の各種行事を日本の伝統的な文化として、ある程度は受け入れようと考えることに等しい。すなわち、現在、宗教的な行事であるという理由で、天皇家が私的行事として行っている新嘗祭などは、ある意味で日本の文化的伝統行事である。天皇家の費用は、もとを正せば国家予算からの支出である。  天皇家の私的行事などと無理な解釈をするのは、憲法の権威を落とすだけである。無理な解釈をするより、これらの文化的伝統行事については、公的な行為の範疇としてもいい。皇室典範などに、国事行為における儀式とは何かを明確に規定してはどうかと思うが、これも憲法改正の作業を進めるなかで国民的な議論を深めたい。

【新憲法試案・改正条文】
第一章 国民と天皇
第一条
日本国の主権は国民に存する。 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴である。

第二条
日本国民たる要件は、法律でこれを定める。 国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて、主権を行使する。

第三条
天皇の皇位は、世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。

第四条
天皇の国事に関するすべての行為には、内閣総理大臣の助言と承認を必要とし、内閣総理大臣が、その責任を負う。

第五条
天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しない。 天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。

第六条
皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは、摂政は、天皇の名でその国事行為を行う。この場合には、前条第一項の規定を準用する。

第七条
天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。 天皇は、内閣総理大臣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。

第八条
天皇は、内閣総理大臣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行う。
一、憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
二、国会を召集すること。
三、衆議院を解散すること。
四、国会議員の選挙の施行を公示すること。
五、国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び  公使の信任状を認証すること。
六、大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。
七、栄典を授与すること。
八、批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
九、国を代表して外国の大使及び公使を接受すること。 十、儀式を行うこと。

第九条
皇室に財産を譲り渡し、又は皇室が、財産を譲り受け、若しくは賜与することは、国会の議決に基かなければならない。

【新憲法試案・新設条文】
※挿入すべき箇所についてはさらに検討を要する。 (国旗及び国歌)

第■条
国旗及び国歌は、法律でこれを定める。