第4章 人づくり - 教育


 社会であれ、国家であれ、その根幹は「人」にある。
 これからの時代は、一人ひとりの個性ある「個」を大切にしつつ、その多様な「個」からなる社会や国家が基本となる。私が目指している二〇一〇年のあるべき国家づくりは、すなわち人づくりでもある。
 日本の教育は、戦前は国家、戦後は企業、という画一的な社会に埋没する「個」を育てる傾向が強かった。たしかに、社会の構成員全員がひとつになって、同じ目標に向かって邁進することは効率的だったかもしれない。
 しかし、戦争前後の社会状況や、最近のバブル経済とその崩壊をめぐる対応ぶりに見られるように、一定の条件下ではうまく機能したシステムが、危機的状況では機能しないことがある。硬直した側面が、進路変更や歯止めをかけることを阻害するのだ。
 二一世紀は、国民各々がしっかりした「個」を確立し、好奇心と創造性を持って人生を過ごしつつ自己責任をまっとうし得るような社会でなければならない。

初等・中等教育と家庭教育
 このような社会を実現するためには、まず初等教育と家庭教育の役割が重要だ。ただ、戦後の教育は、戦前教育に対する反動もあって、「個」を大事にするばかりに、権利を強調し過ぎたきらいがある。その結果、「利己主義」が強くなっているのではないだろうか。
 人は弱いものである。権利と義務を教えられた場合、どうしても権利に傾きがちである。権利と並行して義務を果たしてこそ、他人の権利を守ることとなり、結果として国民すべての権利を守ることになる。そのことを、子どもたちは初等教育と家庭教育で学ばなければならない。
 教育の根幹は、幼児期における人格形成にある。家庭・地域・学校が協力し合って、思いやり、好奇心、創造性、自然に親しみ慈しむ心を育てることにもっと重点を置くべきだ。
 特に、都市人口が増加した現在、自然に接する機会が少なくなり、過度の受験競争の影響もあって創造性を育てる場が少なくなってしまった。いわゆる「理科嫌い」の風潮に歯止めをかけるためにも、フィールド・スタディ(野外研究)が重要である。
 初等教育においては、人格形成に加え、読み・書き・算盤に代表される基礎教科の教育が大切である。また、幼児期での学習がきわめて効率的な、語学やコンピュータなどの科目を重視し、カリキュラムを見直すべきではなかろうか。
 とりわけ、国際的な大競争時代の到来を視野に入れた実践的な語学教育は重要である。現在は受験英語などに代表される文法重視の語学教育が主流だが、コミュニケーション手段としての語学の習得には、早い時期から親しむほうが効果的だ。一部で始まっているが、小学校段階からネイティブ・スピーカー(その言語を母国語とする人)を講師として起用する試みを大胆に推進していく必要がある。
 他方、現在の初等教育は、あまりに建前論に走り過ぎて、総花的な教育になっているように見受けられる。広範囲なカリキュラムや難しい内容は理論倒れで、かえって国民の学力低下に拍車をかけているのではなかろうか(たとえば、初等教育における算数の高度化によって生じる勉強嫌いや落ちこぼれの問題など)。
 このような教育環境を改革するためには、教育の場にいい意味での競合関係をつくり出し、各教育機関が切磋琢磨し得る状況にするべきだと考えている。
 また、二一世紀は、環境問題が全地球的な課題でもあり、国民一人ひとりの自覚、責任感を養うという意味からも、環境教育が重視されなければならない。

選択肢の多様化
 教育を受ける側が、学校を含め、受ける教育の内容を選択できる状況をつくることは好ましいことだと思う。言わば「教育の自由化」を拡大することである。一貫教育があってもいいし、福祉や経済の現場の知恵を生かすこともそれにつながるだろう。
 その意味で、教育に携わる者も、教員に限らず、より幅広い分野から起用する体制が必要ではないだろうか。たとえば、実社会での経験が豊富な人や多様な分野の現役・OBから、教育に熱意のある人々を教職へ受け入れたり、期間を限定して人事交流するなどの方法が考えられる。
 あるいは、卒業後すぐに教職に就いた人が、定期的に他分野に出向して異なる経験を積むようにすれば、本人はもとより教育の質を高めるためにもきわめて有益だろう。さらに、選択肢の多様化という趣旨から、私学の果たす役割は今後ますます大きくなると思われる。
 教育の選択肢拡大のひとつとして、米国にあるチャーター・スクール制度も検討材料だ。この制度は、地域の父母や教員が共通の教育理念・目標を掲げ、教育当局との契約に合意すれば、公的資金によって学校が運営される仕組みである。もし、一定期間経過後、教育目標が達成されない場合には、契約は打ち切られ廃校とされる。
 学校設立者が掲げる理念に基づいた自由な教育プログラムを認めながらも、あくまで公立学校としての基本的枠組を維持する点で、私立と公立の長所をあわせ持ち、責任ある教育を実現させようとするものだ。
 また、子どもたちの個性を尊重する観点から、農業、漁業、工業、商業など専門分野を重視する高等学校についても、いっそうの充実を図っていきたい。その際、就学途中での他の科への異動や、形態の異なる学校間、たとえば専門学校と高等学校、あるいは短大や大学などとの連携が可能となるシステムを拡充することも視野に置きたい。
 発展途上にある子どもが新たな進路を見出そうとする意欲を大切にすべきだ。やり直しができる社会、敗者復活を許す社会をつくるために、まず教育の分野で、適正なハードルを設けることを前提としつつ、多様な選択肢を用意することが重要である。

高等教育の自由化・国際化
 初等・中等教育でしっかりした人格を形成し、基礎教育を身につけていれば、高等教育においては、積極的に自分を高めることが可能となる。
 これからは、「どこで学ぶか」ではなく、「何を学ぶか」が問題とされる時代となろう。
 大学は、教育機関であると同時に研究機関としての側面を重視すべきだ。日本でも自然科学分野におけるノーベル賞受賞者を飛躍的に増加させるよう、大学のレベルを高めなければならない。
 これからの高等教育機関は、いかに独創的な活動を行なえるかが問われることになる。したがって、国としては、より自由化して、多様な国民の要求に応え得る良好な競合関係を生む高等教育環境の整備が重要だ。その点からも、たとえば生涯教育の一環として「国際技能大学」を全国に普及させることを検討したい。
 スポーツは青少年にとって人間形成に多大な影響を与え、精神的充足や心身両面にわたる健全な発達に資するものである。スポーツの振興は、明るく豊かで活力ある社会をつくる上で重要である。
 また、国際化時代に対応して、外国語による授業を拡大することも有用であろう。教育の対象も日本国民だけでなく広く海外の人々も対象にするため、留学生政策を強化し、幅広い教育と好ましい人的関係を構築することが期待される。

あるべき国家像の受け皿
 教育は、将来のあるべき国家の姿の最終的な受け皿である。次の時代を担う若者は、独立不羈の精神を持った誇り高い人間であってほしい。勤労の価値を尊ぶ責任感あふれる人であってほしい。社会の活力は、権利ばかりを主張する依頼心の強い脆弱な精神からは生まれない。
 私は、創造性を大切にし、日々額に汗することの尊さと、その汗が報いられることに共感を覚える社会をつくりたい。そのための教育であってほしいと思っている。
「品格ある国家」の礎は、教育によって築かれるからである。