第3章 アジアの「活力」への貢献

アジアとの共生・共働
 戦前、「大東亜共栄圏」という言葉があった。「八紘一宇」という言葉もあった。いずれも、太平洋戦争の苦い経験とともに人々の記憶にある。否定さるべきものを復活すべきではない。
 しかし、日本がアジアにあって、アジアとともに平和裏に生きていくしかないのも事実である。アジア諸国には、「共存共栄」と言っても、結局、日本の資本に搾取されるのではないかという不安があるかもしれない。
 しかし、日本はアジアを支配するつもりはない。それどころか、戦後、日本が誠心誠意アジアのために努力してきた姿勢は、少なくとも経済協力の実績のなかではっきりと示されており、アジア各国も評価してくれているのではないか。
 私は、先般、東南アジアを歴訪して、各国首脳と意見を交換してきた。
 印象的だったのは、日本経済への依存と期待の高まりだった。
 インドネシアのハビビ大統領は、私が「インドネシア議員連盟」の会長を務めていることもあって旧知の仲だが、同国の通貨危機発生後の日本の支援に感謝の気持ちを表明しつつ、真の兄弟国としての日本への信認・信頼がいかに高まっているかを力説してくれた。
 また、ベトナムのある閣僚は、ファン・バン・カイ首相が、非常に厳しい不況下にあって、なお、経済援助に力を注いでくれている日本の姿勢を高く評価していた、と私に話してくれた。
 マレーシアは、IMFとの関係が厳しくなっていることもあって、日本への期待は特に大きい。マハティール首相は、私が述べた「アジア通貨基金構想」に対して、大いに賛意を示してくれた。
 アジアに向けたこれまでの日本の努力は、けっして無駄ではなかった。これからも、日本の外交において、アジアが中心的な位置を占め続けるだろうとの思いを深くした。
 私は、「アジアとの共生・共働」というテーマを、日本からアジア、世界へ発信したい。
 日本の役割は、支配や搾取ではなく、責任の分担であり、「活力」の共有である。アジアとともに生き、ともに働く「共生・共働」の理念を共有し、アジアから「活力」の源泉として、世界に発信すべきではないか。
 グローバル化とは、必ずしも経済システムの画一化を目指すものではない。ましてや、市場原理主義やアメリカン・スタンダード化ではあるまい。
 アジア各国は、経済活動においても独自の文化を持ち、多様性のなかに活力あふれる社会を形づくるため、けっしてローカル性を消し去ることはできないし、そうすべきでもない。多様性は、アジアの活力の源泉であり、強みなのである。日本は、この多様性と寛容の精神を糧にして、アジア全体の調和ある経済発展を目指すべきではないだろうか。

市場としての日本
 日本のGDPは、中国、韓国から東南アジアまでの地域内で約六割、貿易額で見ると約三割を占める。中国、タイ、フィリピンなどの貿易相手国としては、いずれも輸出の二位、輸入の一位を占めており、その他の国でも、常に五指に入っている。
 このように巨大な日本の経済が、アジア各国の国民生活に影響を与えないはずがない。
 先般のアジア歴訪の際、各国首脳が、異口同音に「日本の経済はいつ立ち直るか」と私に聞いてきたのもうなずける。日本は、経済援助供与国であるばかりでなく、大消費国あるいは観光収入源としてもお得意さんなのである。だから、日本の経済活動に早く正常化してもらわないと困る。そういう声が、アジアからしきりに聞こえてくる。
 私は、日本の経済成長が、国内における国民生活の豊かさや、国民の負担能力の向上にとどまらず、諸外国の経済に大きく貢献していることを強く指摘したい。日本の経済運営の成功が、アジアの繁栄に寄与するのは素晴らしいことだ。平和と安定のなかで活力あふれる経済力を持ったアジアは、世界に強くアピールするだろう。

円の国際化とデノミネーション
 先般、ベトナムを訪れたとき、使える外貨は、かの国にとって旧敵国通貨たる米ドルのみであった。今日、アジアの基軸通貨としての役割が期待されるはずの「円」は、はなはだ影が薄かった。
 日本経済が、世界のGDPの一四%、貿易の七%を占めていながら、使用通貨としての円は、世界貿易の五%、全世界外貨準備のやはり五%でしかない。そもそも、日本の貿易の円建て比率は、輸出の三六%、輸入の二二%に過ぎず、米ドル建てのほうが多い。
 言うまでもなく、日本企業にとって、貿易や資本取引は円で行なわれるのが望ましい。「円の国際化」は、東京市場の拡大や為替リスクの軽減によって日本のメリットとなるのは事実である。しかし、それだけではない。実は、アジア諸国にとっても、恣意的な米ドルの動きに翻弄されない、安定した経済構造をつくるという意味で、大きなメリットがある。
「円の国際化」は、基本的には民間取引の世界であり、一気に進むものではないが、輸銀融資を極力円建て化するなど、官民が力を合わせて粘り強く努力することが大切だ。日本やアジア諸国の国民が汗水たらして蓄積した貴重な貯蓄を、米ドル経由でなく、アジア域内で直接活用するということからも重要である。
 円が国際化すると、一方で日本の国際的責任も重くなる。単に得だからということではなく、アジアのために日本が進んで安定した国際通貨体制を構築するという面からも、私は「円の国際化」を強調したい。
 その際、ドル、ユーロに対して円の表示だけが三桁になっているのは、使いやすさの観点からいかがなものか。円の国際化の進展に合わせて、デノミネーション(貨幣称呼の変更)を前向きに検討すべきではないか。

アジア通貨基金
 アジアが金融不安の嵐に見舞われたとき、これを克服する方策やアジアの新しい金融秩序への展望が、日本の口から語られないことにアジアの友人たちは失望した。聞こえてきたのは、IMFの語る画一的なデフレ政策ばかりだった。
 IMFの教えを忠実に守って為替市場を自由化してきたインドネシアは、動きの激しい短期流動性資金による市場撹乱の最大の犠牲者となった。はたして、その原因は、IMFや世界銀行関係者がよく言うように、単に「良い統治」が欠けていたということで片付けられるのだろうか。
 今、ようやくにして危機的な状況を脱し、回復の兆しもあるが、域内の経済は依然として脆弱な状態にある。第二撃があれば、この地域に計り知れない打撃を与えるかもしれない。再発予防のためのビジョンは不充分である。安定した通貨システムの構築について、アジア諸国の日本へ向けるまなざしは熱い。
 私は、アジア通貨危機が世界の新興市場国の金融・経済危機に転化した今回の教訓を生かして、「アジア通貨基金(AMF)」を提唱したい。
「アジア通貨基金」は、「危機の早期発見」「危機の発生・伝染の予防」「危機からの回復」という三つの役割を果たさなければならない。
 このため、第一に、各国経済状況の定期的なモニタリングを行なう必要がある。特に、域内の資金移動のモニタリングは「早期発見」に重要であり、新たな監視グループを設立して、統一的な視点で市場に情報を提供する。
 第二は、「予防」に必要な流動性を供給するため、各国政府・中央銀行から、一定の割合で拠出を求め、危機に応じて特別融資を行なう。
 第三は、危機からの「回復」に必要な、中・長期の資金や保証の提供を行なうことである。
「AMF構想」は、これまでもさまざまなところで議論されてきたが、米国の反対などで実現には至っていない。しかし、今や状況は変わってきている。
 実現されれば、IMFなど既存の国際機関との関係を整理する必要が出てくるが、要は、閉鎖的な経済ブロック体ではないながらも、アジアのローカル性を充分尊重したシステムとして機能させることである。
 そのために、日本は思い切って円を積んで、アジア諸国にとって使い勝手のいい投融資・保証制度をつくるべきではないか。たとえば、アジア開発銀行に期限つきで基金を設けるなど、機動的な枠組を設定してもいい。
 さらに、長期的な観点から、アジア地域の調和ある発展を目指して貿易や投資の自由化を段階的に進め、「柔らかなアジア経済共同体」を形成していくべきではないかと考える。EUのような統合は、まだ語る段階にきていない。
 しかし、EUの壮大な試みを見るとき、アジアについても未来のあるべき姿を真剣に模索していかねばならないと考えさせられる。

戦略的経済協力
 日本が行なう国際貢献のなかで、経済協力、特にODAが果たしてきた役割は大きい。
 この一八年間でODAの金額は一〇倍、一九九一年以降は七年連続で世界一となっている。
 このような量的充実の一方で、これまで量ばかり追い求めてきたことの問題点を指摘する声が出てきている。特に、国家戦略的視点が乏しいのではないか、日本の深刻な経済状況を考えると果たしてそのような余力があるのかといった批判が多く聞かれる。加えて、途上国での不明朗な使途が国民の不信を大きくしている。そもそも、何のために援助するのかという経済協力の原点に立ち返った検討が必要である。

量から質へ - 役に立つ援助
 日本が、国際社会において国力にふさわしい役割を果たすべきこととして、軍事的貢献に限界があるとすれば、経済的貢献が中心となることは、誰もが納得できるであろう。
 問題は、それが本当に相手国の国民の役に立っているか、ということである。私は相手国経済社会の自律的な発展に貢献することを第一義と考える。青年海外協力隊や緊急人道支援など、ヒトや技術、食料のような具体的なモノ、身近な施設といった援助のあり方も真剣に検討すべきではないか。
 そうした援助を実施するためには、真に相手国の国民が必要としているものを正確に把握して、それをできる限り具体的な形で供与しなければならない。すると、手間もかかるし人手もかかる。逆にカネは、かからないかもしれない。
 それはそれでいい。ODAの総額やGDP比といった数字だけを目標にしたり、相手から評価されないまま総枠の消化のために援助するのでは本末転倒である。

見える援助
 広い意味では、ODAが日本の国益の観点から有効に活用されているかも問題である。
 ひも付きでないアンタイドの援助が多いことや、足長おじさんのような「顔の見えない援助」のほうが奥ゆかしくて道徳的なわけではない。二国間のODA中、アンタイドの割合は日本が九九%、これに対し米国は二八%である。
 むしろ、貿易や国際的な安全保障を発展させ、維持していくため、国益にかなった生きた金の使い方をすべきではないか。
 一方、人道支援を思い切って行なうことは、ヒューマニズムという価値観を共有する国際社会の連帯感を示すものだ。常に国際的責務を果たす用意があることを発信する意味では、重要な外交手段であって、この分野での迅速な対応は大いに国益にかなう。
 いずれの場合も、相手国の政府と国民の間に距離があるケースの存在も否定できず、政府の腐敗に手を貸すような援助は逆効果だ。もし、援助の趣旨が損なわれるような汚職・腐敗があるとすれば、手続きの透明性を確保するため、監査や情報公開を条件づけるなど、不祥事の発生を未然に防ぐ手だてが必要である。もとより、日本企業の談合体質や、高コスト体質を持ち込むような愚は避けるべきだ。
 日本から発信する以上、「日本の顔が見える援助」でなければならない。

アジア中心の援助
 日本からの発信として、「平和」のメッセージは重要である。武器援助をしないことは当然ながら、核開発や大量破壊兵器など軍備拡張に国費を注ぎ込み、明らかに地域の平和と安全に悪影響を与えている国の政府に対しては資金援助を行なわないなど、明確な意思表示をすべきだ。
 人権や民主化問題は、相手国の内政問題との関係で微妙なところがあるが、日本の考え方を正確に伝えることによって理解されるのではないか。
 限りある予算をどのように配分するかとなると、私は、やはり、アジア中心でいくべきだと思う。日本は、アジアに重点を置くと言いながら、現実には二国間ODAにおけるアジアへの配分は、一九七五年の七五%から九七年の四六%にまで落ちこんできている。急激な変更は難しいかもしれないが、ここは思い切ってアジアに特化すべきではないか。地域的バランスを強調するあまり、戦略的発想を失ってはならない。

知的貢献、人的貢献
 私たちは、アジアの未来像を、過去からの延長上に、あるいは現在の欧米のコピーとして投影するやり方に、とらわれ過ぎていまいか。その意味で、近未来のあるべきアジア人の姿を具体的に想像し、それを目指して、域内の各国が少しずつ手を打ちはじめる時期かもしれない。
 日本は、その先頭に立って、知的交流拠点を各国につくっていくなど、従来「モノ」に偏重してきた日本のODAによる資金協力も、そろそろ「ヒト」に対する投資の促進に振り向け、多様化を図るときがきている。

留学生一〇万人計画
 そのひとつの具体的な方策が、留学生の受け入れである。
 日本をアジアにおける知的交流の拠点にする上で、留学生の受け入れは重要だ。母国でリーダーとなった留学経験者を通じ、アジア各国と日本との相互理解につながる点でもいっそう意義深い。
 今のところ、国費・私費留学生合わせて約五万二〇〇〇人だが、政府の目標は、二一世紀初頭で一〇万人である。
 最近受け入れの学生数が伸び悩んでいるのは、バブル崩壊や通貨危機など経済的理由が大きい。ただ、今後ハード面・ソフト面の施策の充実と合わせて、社会や大学のあり方など、もっと根本にさかのぼった環境整備を議論しなければ目標達成は難しい。
 まず日本の大学、研究機関の魅力を高めることが大事である。このこと自体、留学生に限った話ではないが、たとえば、日本での実績が母国で社会的に高い評価を受けるとか、卒業後、日本あるいは母国の日本法人への就職の道が開かれるといった社会経済的効用を高めていかなければならない。
 さらに根本にさかのぼれば、日本の大学の国際競争力を高め、世界で通用する人材が、その能力を充分発揮できるよう環境整備を行なっていく必要がある。また、受け入れる地域の意識改革を進め、他国の人々と共生し、異なる文化を受容する意識の醸成に努めなければならない。
 若い才能は、国際公共財であるというメッセージを世界に発信し、知日派・親日派を増やすことも大事だと思う。
 これまで、留学生情報センターや「国際研究交流大学村」など、さまざまな支援策を進めてきている。特に後者は、宿舎などの生活スペースだけでなく、知的活動や情報発信など、知的貢献の拠点として大きな役割が期待される。
 留学生は未来からの大使である。私はそのことを改めて強調しておきたい。

環境技術
「知的貢献」のひとつの柱が「環境技術の開発と普及」である。
 アジアの抱える人口の大きさを考慮すると、欧米のコピー的な単純な工業化の道を進むことは許されない。水、空気、森を守ることと、その欠乏から逃れることを同時に達成することは、自らの生存にかかわるとともに、国際社会に対してアジア人全体が負っている責務でもある。
 日本の果たすべき役割は格段に大きい。後発者の経済開発を抑制することによらず、環境と調和するための技術と知識を提供できる数少ない国家のひとつが日本だからである。
 この努力は、すでに国の内外で広範な取り組みがなされており、評価も高い。その成果や知恵を結集して、「アジア環境大学」を設立してはどうだろうか。あるいは、既存の高等教育や研究機関の一部を発展的に改組して「国際研究交流大学」といったものをつくってもいい。さらに、優秀な環境技術の開発に対するノーベル賞的な「国際環境賞」などを設けてはどうか。
 要するに、国際的な環境協力におけるリーダーシップを日本の大看板に仕立てたい。このような取り組みは、「知的貢献」の拠点としての日本を強くアピールするだろう。