第2章 世界平和への貢献


私たちは心構えができているだろうか
 安全保障問題は、とかく国民から敬遠されがちなテーマである。
 これはおそらく最後の腹構えという、言わば自分たちの覚悟が問われる問題だからだろう。しかし、自分で自分のことを決めるというのが国家のあり方の根本であって、逃げてはいけない。
 有事のことを考える前にやるべきことがたくさんあるという議論がある。予防外交が大事だという議論もある。それは、そのとおりだ。私も否定しない。
 だからと言って有事のことを考えなくていいのか。
 考えなくてすむのなら誰も苦労はしないわけで、これは、結局、考えたくないことを避けるための言い訳に過ぎない。
 本当は逆であって、有事の心構えを持つからこそ、そうならないよう平和外交の方策を真剣になって考える。国家の進むべき方向性を明確に指し示し、そのことについて国民の理解が得られるよう努力することは、政治家の重要な責務だと思う。

日本を取り巻く世界情勢の変化
 冷戦中の国際社会は、米ソ二極構造の下に、軍事援助と同盟関係を通してグローバルな勢力均衡が図られ、核の抑止力を背景にバランス・オブ・パワー(勢力均衡)が成立していた。
 戦後間もない時期の朝鮮戦争の後、キューバ危機など一触即発の事態もあったが、緊張度の高い「恐怖の均衡」に支えられ、大国同士が正面から直接武力衝突することなく約五〇年が経過した。
 その間、日本は、常に米国と共同歩調をとることにより安全を確保してきた。極東ソ連軍の潜在的脅威に対抗して、米国の核のカサの下、限定小規模侵略に対しては独力で対処し、本格侵攻に対しては日米安保条約の発動により共同対処行動で排除するとしてきた。
 日本は冷戦中、西側陣営に属し、外交の軸足を米国に置き続けることにより、軍事問題にあまり頭を悩まされることなく経済発展に専念できた。この五〇年間の平和の恩恵を最大限享受したのが日本なのである。
 これまで日本は、「力の空白」がこの地域の安定を阻害することのないよう基盤的防衛力を整備してきたが、主体的に国際社会の秩序に寄与するというようなことは、国内で議論することもなかったし、また、その実力も覚悟もなかったと言っていい。
 さて、今、冷戦が終わった。
 ソ連は崩壊し、その潜在的脅威が減少して、東西の緊張がなくなったとしたら、いったい何のための防衛力、何のための日米安保条約か、ということになる。議論は、そこから始めなければならない。
 人々は「恐怖の均衡」から解放され、平和の配当を期待した。ところが、その後起こったことは、世界各地の激しい地域紛争だった。
 中東では、イラクのクウェート侵攻に続く湾岸戦争、アフリカではソマリア、ルワンダの内戦、ロシアの周辺ではチェチェン紛争、アフガニスタン、グルジア紛争、ユーゴの崩壊によるクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、そして、今度のコソボ紛争など、数え上げればきりがない。
 その背景には、米ソ二極によるグローバルな軍事バランスが崩れ、地域的・局所的に「力の空白」や不均衡が生じたことと、これまで大国の下で抑圧されていた民族主義や宗教対立が一気に火を噴き始めたことがある。
 では、アジアはどうか。
 すでに冷戦時代からベトナム戦争、カンボジア紛争など、インドシナ半島における緊張は断続的に続いていた。今日でも、カシミール紛争、東ティモール独立闘争、スリランカ民族抗争、南沙諸島の領有をめぐる争いなど、さまざまな問題を抱えているのが実情である。
 ことさら緊張関係を強調するつもりはないが、台湾、朝鮮半島における軍事対立など、日本も他人事ではいられない。さらに、アジアにおける最近の軍備拡張競争は深刻であり、潜在的な緊張の高まりには、細心の注意を要する。

新国際秩序
 このように地域紛争の多発する世界情勢に対して、国際社会は、どのようにして平和な秩序を創っていこうとしているのだろうか。冷戦時代であれば、米ソ両大国が介入し、直接衝突を避けるための外交努力を払うのかもしれないが、今日では、そのような構造もない。
 主権国家間の紛争だけでなく、人権を無視した民族浄化やテロに対しても冷戦後の国際社会をどのように秩序立てていくのか、そして、日本は、そこでどのような役割を果たすのか。

冷戦後の国連のあり方
 まず、期待されるのが国連である。国連憲章が目指す国際秩序とは、無法者を世界政府の警察力で取り締まる世界であった。国際社会においては、今のところ世界政府というものはないが、それに近い形で平和と安全を確保しようとしたのが、先の大戦が終わる直前に内容が固まった国連憲章である。
 第二次世界大戦中、連合国は、国際連盟がナチスの侵攻を防げなかった反省から、United Nations(連合国=戦勝国による国際連合)による強制手段をよりどころとして、戦後の平和を維持・創出する構想を国連憲章に盛り込んだ。
 国連憲章では、戦争を原則、禁止するとともに、武力行使の正邪を安保理事会の認定の下に置き、「邪」に対しては「安保理事会は国際の平和および安全の維持または回復に必要な空軍、海軍または陸軍の行動をとる」ことができるとしている。また、各国の自衛権も「安保理事会が国際の平和および安全の維持に必要な措置をとるまでの間」のものであり、たとえ自衛の措置であっても安保理事会に報告しなければならないこととした。これが国連軍の国際警察活動を背景とした集団安全保障体制である。
 ところが、国連憲章が描くこの理想的な国際秩序の世界は、戦後の東西冷戦という冷厳な国際社会で、現実には、NATO、ワルシャワ条約機構、それぞれの同盟関係が対峙することとなった。そこでは、国連憲章にある集団的自衛権、つまり「自国は直接の攻撃を受けていないが、密接に関係のある他国が武力攻撃を受け、それが自国に対する急迫した危険と認められる場合、攻撃した国に反撃し得る権利」が、主権国家固有の権利として援用された。
 言葉が紛らわしいので混同されやすいが、要するに、国際警察のような国連軍によって戦争を押さえ込もうと考えた本来の「集団安全保障」ではなく、古典的同盟関係と勢力均衡によって紛争を抑止しようとする「集団的自衛権」が、幅を利かせたわけである。
 地域紛争の多発するなかで、国連は、平和維持軍や停戦監視団など、さまざまな形で平和維持活動を行なってきた。特に、イラク・クウェート監視団、旧ユーゴの国連保護軍、国連ソマリア活動などでは、従来のPKOよりいっそう積極的な役割を果たすようになった。
 冷戦後の国連については、本来の正規国連軍の創設よりも、このようなケース・バイ・ケースで積み重ねてきた決議・勧告などに基づくPKO・多国籍軍などの活動を評価し、これをより一般化・規範化する形で対応していくほうが現実的であろう。
 厳密な定義のない「国連憲章七章」下の国連の軍事的活動について、今後、さまざまなパターンが出てくることが考えられるが、日本としても、国益の観点から、かつ憲法上の制約の下で、それぞれについて、参加の可否や是非の政策判断が求められることになるだろう。

いわゆる国連中心主義について
 非武装中立的政策にシンパシーを感じる人のなかには、東西冷戦期にしばしば見られたように、争いが起こるとどちらにも組みせず中立的立場に立ち、争いがなくなってはじめて機能する国連、あるいは武力を行使しない国連を理想化し、このような国連を外交の中心に置いて「国連中心主義」と称することがあった。
 中立という立場は、仲裁や調停に乗り出すときなど、場合によっては必要なタクティクス(戦術)である。武力も、行使せずにすむものならば、そのほうがいい。
 しかし、前項で述べたように、本来、国連に期待されていたのは、国際的な法秩序だった。法秩序は、本質的に強制力をともなう。国内に秩序があるのは、警察という正当化された実力組織があるからだ。秩序の中心にあるべき国連は、紛争当事国の「正邪」を判定し、「邪」に対して強制力を行使することで、本来、果たすべき紛争処理機関としての使命をまっとうできる。
 この意味での国連を外交の中心に置くということは、日本の戦後の進路として、ある意味では常識的な選択であった。日本の「国防の基本方針」には、「外部からの侵略に対しては、将来国際連合が有効にこれを阻止する機能を果し得るに至るまでは」、日米安保体制を基調として対処することになっている。つまり、日本周辺で、国際平和を実力で実現するのは、まず、国連であるはずだという前提で「国防の基本方針」ができている。
 ところが、国連憲章にある正規国連軍が成立するためには、五大国の参謀総長からなる軍事参謀委員会、各国から兵力を提供させる特別協定、兵力使用計画の策定などが必要であり、いまだに実現する見込みはない。また、本当に国連軍ができた場合、参加国が指揮権を委譲できるかという問題があって、今のところきわめて非現実的と言わざるを得ない。
 さらに言えば、日本周辺で紛争が起これば、常任理事国である中国とロシアに無関係であるはずがない。朝鮮戦争のときは国連軍が編成された。当時は、今の中国は代表権を持っておらず、安保理事会の決議はソ連の欠席中に行なわれた。今後は、中露両国の拒否権の行使も予想される。
 そのような状況のなかで、東アジアにおける紛争の勃発に対して、国連は本当に、実力による紛争処理機関として機能するのだろうか。これが「国連中心主義」に対して私が疑問を投げかける理由のひとつである。

「国連尊重主義」への転換
「国連中心主義」という用語に厳密な定義があるわけではないが、国連の決議を絶対視・万能視し、国連決議に基づく行為は、武力行使も含めすべて憲法の認めるところとする考え方がある。しかし、国連のお墨付きさえあれば、日本があらゆる武力行使について参加することに何の障害もないと考えていいのだろうか。
 この点については「集団的自衛権と憲法解釈」のところでも後述するが、いかに国連の役割や国際的権威を認めたとしても、私は、今の憲法の下では、仮に国連決議があっても多国籍軍の軍事行動への参加を認めるべきではないと考える。そういう意味で、国連絶対主義、あるいは国連至上主義はとるべきではない。
 このように、国連決議を万能と考えて、決議さえあれば何でもできるといった考え方を「国連中心主義」というのならば、私は、そうではなく「国連尊重主義」ととらえなおすほうが適切だと思う。

国連に軍縮・軍備管理の思想を
「国連中心主義」には、国連の絶対的権威に服し、国連の決定を与件として、唯々諾々と従うようなニュアンスがある。しかし、国連は、主権国家が持っているような権力の淵源を自らの内に持っているわけではなく、単なる会議場にすぎない。国連の意思は、そこに集まる国家の協議で決まるのであって、大切なことは、意思決定にどれだけ日本の主張を反映させるかである。
 たとえば、国連憲章にある旧敵国条項は、第二次世界大戦中の枢軸国を対象としたものだが、このような条文を改正することや、今日の国力に見合った表決制度などの制度改革を進めること(特に、安全保障理事会の常任理事国入りなど。これらは、最近、少しずつ改革プログラムに乗ってきているようだが)に関して日本の意思を明確に主張し、国連の意思決定プロセスに反映させて国連を変えていくべきである。
 また、国際連盟と比べて明らかに貧弱な軍縮・軍備管理の思想を、国連憲章にも明確に位置付けるべきではないか。非核政策と武器輸出の禁止を国是とする日本は、軍縮と核および武器の国際的管理強化の分野では、他国に対して強く主張することができるはずである。
 このように国連でイニシアティブを発揮していく過程で留意すべきことは、大きな発言力を持つ以上は、それに見合った負担を国際社会のために行なう覚悟であることを明確にしておくことであろう。権利と義務は、常に裏腹だからである。その意味で、私は、原則的に、国連の平和創出活動について、日本も積極的に参加すべきだと思っている。

パックス・アメリカーナ(米国による平和)
 冷戦の終焉後、米国は唯一の超大国となった。ソビエト連邦とワルシャワ条約機構は解体し、西側の価値観が世界を席巻することとなった。そうなると、国連というよりも、むしろ実質的には米国の主導の下に、新世界秩序が構築されていくように思える。だが逆に、一時期は圧倒的だった米国のヘゲモニー(覇権)に、陰りが見えているとの指摘もある。
 米国は、民主主義、自由主義の理念の普遍性を信じ、その体現者かつ宣教師として、自らの価値観を世界に実現しようとする傾向がある。キッシンジャーは、その著書『外交』で、「自己の価値観が世界的に通用するということを米国ほど熱心に主張した国もなかった」と述べ、バランス・オブ・パワーによる国益中心の利己的・伝統的な欧州外交とは異なるウィルソン流の利他的・平和愛好的理想主義を、米国外交の思想のひとつとしている。
 他方、米国民一般には、根強い孤立主義指向がある。世界の警察官となって、遠い外国で自国の若者の血を流すことに対し、強烈な抵抗があることも事実なのだ。したがって、米国外交も冷徹な国益第一の論理で動くことが多い。その重要なキーワードが、米国にとって「死活問題」かどうかということである。そこには、国益としての経済的利益も、当然含まれる。
 米国は、安全保障面において前方展開戦略とともに、二つの大規模地域紛争に対応し得るだけの戦力を展開する戦略(大規模地域紛争への二正面展開戦略)をとっているが、これも、このような文脈で説明されているし、経済摩擦、貿易戦争の局面でも、基本的には同じ発想であろう。
 もし、冷戦後の世界秩序を、少しでも集団安全保障体制の方向へ近づけるべきだとするならば、米国の力なしには実現できない。
 もちろん、単純に米国を平和勢力ととらえて、無条件に支持に回るべきだと主張しているわけではない。しかし、実際には、自由、民主、人道主義といった理念に裏打ちされた地球規模の行動を、米国以外の国に期待するのは無理ではないだろうか。アジアにおいても、当面は国際秩序を維持するため、米国の軍事的プレゼンスに期待せざるを得ない。
 ただ、米国の根強い孤立主義への回帰指向からすれば、何らかの些細なきっかけで、世界に展開する「十字軍」の派遣を取りやめ、内向きに転換してしまうおそれがある。新しい秩序が、米国という一国家の意思に大きく依存するとすれば、将来に向かって安定的なものとは言いがたい。
 そこで、自由主義、市場経済主義といった共通の基盤を持つ国々の協力が、この秩序には不可欠であり、価値観を共有する平和愛好的な民主主義諸国が、連帯して紛争に対処することが重要である。

日米安全保障条約 - アジア太平洋地域の平和と安全
 アジアにおける地域紛争はいかに抑止するべきか。
 朝鮮半島、台湾海峡は言うにおよばず、南沙諸島、マラッカ海峡などの海上交通路やアジア各国の国内混乱が、日本にとって重大関心事であることは間違いない。
 実際に、アジアにおいて内戦や領土紛争が起こったとき、国際社会は、その事態に強い関心を持って紛争抑止のための協調行動をとる必要があるが、そこでも主たる役割を期待できるのは米国であろう。中国は、アジアにおいては米国に拮抗する勢力だが、集団安全保障の考え方に基づいて行動することは、北朝鮮に対する四者協議のようなケースもあるものの、当面、消極的だとされている。
 日米安保条約は、国連憲章上の集団的自衛権を援用する二国間同盟だが、冷戦終結後は、日本への直接の武力侵攻というより、地域紛争の抑止・対処が主たる課題となってきており、その意義が、日米安保共同宣言にも述べられているように「アジア太平洋地域の平和と安定」という面から問い直されているところである。
 日米の協力関係は、単に日本だけの平和と安全を維持するためだけではなく、冷戦後の新世界秩序の一環としての意味がある。
 いわゆるガイドライン法案は、戦後はじめて日本が、自国の防衛という観点だけでなく、この地域の平和と安定への積極的寄与という観点を含めてつくられたものである。その内容は必ずしも充分なものではないかもしれない。しかし、世界平和への貢献の第一歩として、きわめて重要な意義を持つものである。

アジアにおける文化の仲介役
 それでは、アジアの平和については、米国に追随するしかないのだろうか。
 キッシンジャーが言うように、米国は「世界最高のシステムを持っており、他の国々がその国の伝統的な外交を放棄し、代わりに米国の信奉する国際法と民主主義を取り入れれば平和と繁栄を手にすることができる」という信念を奉じ、熱心に伝道に努めているようだ。それは、たとえば「人権外交」やアジア諸国の国内問題への強硬な介入姿勢に見てとれる。
 他方、伝道者としての発言や行動は、その押し付けがましさゆえにアジア各国の反発を買い、文化の違いや現実の政治状況を無視した危うさが指摘されている。
 東アジア諸国は、文化、民族、宗教などに共通項が少なく、欧州に見られるようなローマ文明とキリスト教に共通の足場を置いた主権国家を前提とする考え方、あるいは体系的に国家間を規律する思想は成立しにくい。
 むしろ軍事力、経済力、資源量の格差が大きいため、歴史的に見れば国家間の関係が、水平的というより垂直的なタテの秩序をとることが多かった。それは中国を中心とする華夷秩序であり、覇権による平和である。
『文明の衝突』を著したハンチントンは、西欧文明と対立するアジアの価値観が将来再認識されることを予想している。中国の覇権を念頭に置いて「アジアが選択できるのは紛争を対価とした勢力の均衡か、覇権を対価とした平和のどちらか」であるとし、「アジアは平和と覇権を選ぶ可能性が高い」とも述べている。
 二〇一〇年という近未来においては、そんな流れが見えてくることもあり得よう。
 しかし、現在の国際社会は、欧米の近代思想体系の下で秩序づけられようとしている。また日本は、戦後の国際秩序のなかで、民主主義・自由主義という欧米流の価値観を共有する諸国の一員として行動してきた。当面、日本にとって大事なことは、この世界秩序のなかで、アジアが孤立することを防ぎ、アジア異質論が台頭しないよう、地道な努力を重ねることではないだろうか。
 日本が「文化の仲介役」としての役割を果たすことは容易ではないが、いざというときに、欧米諸国が「アジアは別だ」とか「アジアのことはわからないから戦争が起きても放置するしかない」という態度をとるようでは困る。
 他方、米国に対しても、アジアにおいてむやみな行動をとることで、その権威を低下させることのないよう、建設的で想像力に富んだ助言者としての役割を追求していくことが重要だと思う。特に、「内政干渉」かどうかをめぐって、米国とアジア諸国が対立するケースが多い。国家の主権を尊重することは、国際関係の基本であり、日本外交のプリンシプルだと言いたい。

日本の安全保障
 日本は、国際社会のなかで孤立しては生きていけない。
 常に、国連、集団安全保障、地域的安全保障の枠組、日米安保条約などの二国間関係、そして、自前の自衛力といった重層的な安全保障体制を考えておかねばならない。これらは相互に排他的・選択的なものではないし、現実の国際社会の秩序はケース・バイ・ケースで、地道な努力の積み上げによって形成されるものである。
 一方、日本の積極的行動に際していつも議論されるのが、日本に対するアジア諸国の警戒感である。ただ、中国については、一様に論ずることができないので、次項で別に述べるとして、中国以外のアジア諸国を見てみると、たしかに第二次世界大戦の傷跡は深く、今日まで、日本への不信感が完全に払拭されていないのは事実だろう。
 しかし、歴史的に見ると、これらの国はもともと中国に対する警戒心が強かったところなのである。中国に隣接する国々は、その圧倒的な脅威の前に、いかにこれをしのいで独立を確保するかに意を注いできた。そのようなアジアの小国にとっては、むしろ、米国の正面勢力が大きな安心感を与えている面がある。
 以前、防衛庁の幹部が、「日米同盟は、国際社会における日本のパスポート」と言ったことがある。たしかに、日本が軍事面において、米国との協調なしに独自に寄与できる部分はあまり大きくないのかもしれない。
 平和への日本の積極的行動は、常に米国と共同歩調をとることによって、アジア諸国の安心感につながっていると考えるべきである。

中国は現実主義の国
 中国は、伝統的に華夷思想を持ち、「遠交近攻」「以夷制夷」の国である。多民族国家たる中国の安定自体が、周辺諸国の安定をもたらすという考え方だ。言い換えれば、集団安全保障思想とは縁遠い面があり、明確に自国の国益を追求する現実主義の国である。
 したがって、この国のいう日本脅威論は、リアル・ポリティーク(現実的政治)の文脈から理解しなければならない。日本の国益の主張に対し、中国の反発を招くことがあったとしても、それはある意味では当然といえ、むしろ、日本の国益を率直に語ることが相互理解への早道なのだ。
 逆に、日本が、自国の憲法で縛られているといくら語ってみたところで、信用のよりどころにはなるまい。憲法は、国民の意思で変え得るものであり、現に解釈は変わってきている。外国から見て重要なのは、憲法で縛られているかどうかではなく、政府・国民がどのような意思を持っているかである。そこを正確に発信できるか否かが問われている。
 中国は、今後、隆盛が予想される大国である。現時点での経済力・軍事力については、世の中の見方には、やや過大評価のところがあるが、将来の国力について過小評価することは避けなければならない。
 中国の戦略的な関心は、もっぱら米国に向けられているが、民主主義を実践している台湾に対する中国の露骨な武力行使は、いくら中国が国内問題だと主張しても、米国にとって我慢ならない問題となるだろう。

「戦略的あいまいさ」の効用
 一九九九年はじめに中国を訪問した際、私は、さる中国要人と会談を行なった。ガイドライン法案の趣旨を説明して、中国の理解を得ることが目的だったが、先方は、周辺事態に台湾を含まないことを明確にするよう求めてきた。
 そこで私は、「もし、あなたが、ここで中国は台湾を武力攻撃しないと明確に約束するならば、周辺事態に台湾を含まないことを明言しよう」と切り返した。すると先方は、もはやこの問題に触れようとせず、次の話題に入ってしまった。
 つまり、中国は、台湾の武力解放もあり得るとしているが、するとかしないとかは明言しない。このことは「戦略的あいまいさ」が中国においても、日本と同じように有効と考えられていることを示していて大変興味深い。
 ひるがえって日本では、ガイドライン法案の審議において、野党から、しつこいほど「周辺地域とはどこか」「台湾を含むのか」と質問された。これに対し政府は「地理的概念ではない」という答弁を貫いた。
 マレーシアのマハティール首相も、周辺事態法の対象国を明示することは、敵性国をつくることを意味するから止めたほうがいいと言っていたが、私は、現在の日本がとっている「戦略的あいまいさ」は、きわめて賢明かつ適切な外交戦略だと思っている。

事前協議には「ノー」もあり得る
 私は、日米安保条約にある事前協議制度の運用問題に関して、従来から「日中関係が健全かつ正常であり、日本の平和と安全に重要な影響を及ぼさないような場合には、中国を当事国とする有事に対処するために、日本の米軍基地から発進する米軍の直接行動に対し、ノーがあり得る」ということを述べてきている。
 これは、事前協議制度が、日本政府の主体的な判断を前提とした制度であるから、「イエス」もあれば「ノー」もあるという意味では当然かもしれない。このような姿勢を明確に示すことは、米国から見れば、日本の意向を無視して対中関係を考えることができなくなる一方、中国から見れば、米国だけでなく日本も、ある種の当事者と見なさざるを得なくなることを意味する。このスキームを、日本が有効に、かつ責任を持って活用することは、この地域の平和と安定に寄与すると考えている。

北朝鮮の「核武装問題」
 地政学的に、日本の安全保障にとって最も重要なのが朝鮮半島であることは、過去の歴史を見ても明らかである。韓国との関係は、歴史的な問題の克服という長期的な課題はあるが、それを乗り越えて、前向きな関係改善の試みが最近積極的に行なわれている。
 その意味で、私は、金大中大統領の取り組みに心から敬意を表したい。当然ながら、日本においても文化、外交、民間・市民協力を含め、あらゆるレベルで、両国関係の向上のため、努力しなければならない。
 最近、防衛協力の面で日韓の対話が進んできているのは、大変好ましいことである。この地域の平和と安定が、両国共通の利益であることを核として、さらに順調な発展が期待できると思う。
 米、韓、日三国の安保協力を進めていくことが、引き続き重要な課題であり、また、将来、朝鮮半島統一の可能性が見えてくるようになれば、統一プロセスや統一後の朝鮮半島の平和と安定のための体制づくりに、積極的な支援を行なっていくことになるだろう。
 朝鮮半島情勢は、中国の動きに大きく左右されるところがある。北朝鮮と米韓軍との対峙関係は、今のところ軍事的には手詰まり状態にある。これを大きく揺り動かすとすれば、北朝鮮の「核武装問題」であろう。
 そうした観点から、米国の核査察の徹底が強く望まれるし、現行の四者協議の枠組に日露を加え、六者協議とするべきである。
 日本と北朝鮮との間には、拉致疑惑をはじめ、テポドン発射、不審船侵入など、信頼関係を築きあげる上で障害となっている問題も多い。私は、政府レベルの「外交正面」で問題解決を図るべきだと考えている。

北東アジア非核地帯構想
 私は、さらに、その先の姿を脳裏に描いている。
 ソ連の崩壊は、同時に、世界の核管理体制をも崩壊させてしまった。最近の核拡散の動きにより、従来の「相互確証破壊抑止理論」(反撃で相手を全滅できるだけの戦略核を保有することにより、相手の第一撃を抑止しようとする考え方)も揺らいできている。核の第一撃への誘惑が高まっていることは、きわめてゆゆしき事態である。
 SALT(戦略兵器制限交渉)やSTART(戦略兵器削減条約)などの核軍縮交渉を見ても、米露両大国の戦略核削減問題に容喙できる国家はない。一方で世界には、南極や宇宙だけでなく、南太平洋非核地帯条約のように、一定地域を非核地帯化する条約が東南アジア、ラテン・アメリカ、アフリカなどにある。
 日本は、現在、明確な非核政策をとっているが、極東アジアに戦術・戦域核が配備されることは、この地域の不安定化につながる。日本と朝鮮半島を中心に、極東の一定地域から核を排除することは、結果として地域の平和に大きく貢献する。この考え方に、中国やロシアを同調させるには、高いハードルがあるだろうが、朝鮮半島の将来をにらみながら、私は、あえて「北東アジア非核地帯構想」を提唱したい。

ロシアとの関係 - 北方四島の非軍事化
 日露関係は、冷戦終結に至るまで、残念ながら良好であったとは言えない。しかし、最近、日露首脳会談を契機に、北方領土問題解決に向け、大きく動きだす可能性が出てきた。
 私は、領土か領土でないかといった抽象的な概念の議論より、むしろ事実の積み重ねが重要ではないかと思っている。居住環境の整備、対日感情の改善、ヒトの交流、経済協力、交易・相互依存関係の高まりなど、好ましい環境をつくっていくことは、交渉のタクティクス(戦術)としても意味がある。
 私が最も力を入れたいのは、「北方四島の非軍事化」である。いかなる形で領土交渉が決着しようとも、紛争の種を除いておくことは、両国の利益につながるはずだ。決着のためのステップとしても、有効な交渉テーマであろう。
 極東ロシア軍の規模は、一九九〇年以降、縮小傾向にあり、その能力も大幅に低下している。一方、外交面においては、最近、ロシア国内経済の混乱やナショナリズムの高まりを受けて、むしろ大国としての立場を強化すべく、国益をより前面に押し出そうとしている。
 これは、冷戦後、唯一の超大国となった米国中心の国際秩序に対して、アンチテーゼを打ち出すことにほかならない。つまり、NATO拡大への対抗策として、旧ソ連諸国との関係をいっそう重視し、中国、インド、日本を含めた周辺国との関係改善を模索することである。
 特に、中国との間では、軍事同盟を通じた米国の一極支配を牽制し、多極的国際関係の構築を目指すという点で、中露両国の利害は一致しており「戦略的パートナーシップ」を宣言して関係を緊密化させている。
 このように、軍事的プレゼンスの縮小にもかかわらず、ロシアは、依然、政治、軍事、経済などあらゆる面で大きな潜在力を秘めた大国である。アジアにおける主要なプレーヤーとして軽視することはできない。日露関係も、このような東アジアのパワーゲーム(勢力争い)的な側面を考慮して、大局的な観点から構築していく必要がある。

アジアの多極的安全保障協力構想
 アジア、特に朝鮮半島や台湾海峡を含む日本周辺は、世界のなかでも、大国の軍事バランスを背景に、相当規模の火力が対峙している危険な地域である。この地域の不安定化は誰も望まないし、今すぐ何かが起こるという状態ではけっしてないが、いついかなるきっかけで導火線に火がつくかは誰にもわからない。
 防衛力は、本来、相手との関係で決まる相対的なものである。また、それが抑止力として機能するためには、双方が、相手の意図と能力を正しく認識した上で、合理的に損得を判断できることが前提となる。したがって、意図と能力の見極めに誤りがあると、抑止力が効かなくなる恐れが出てくる。
 たとえば、物理的に脅威となり得ないものにうろたえて相手の術中にはまったり、逆に、攻撃できないだろうとタカをくくったりするのは、「能力」の読み違えである。また、相手が本気であるにもかかわらず、どうせポーズだけだろうと考えるのは、相手の「意図」の読み違えである。こちら側も、せいぜい経済制裁程度のことしか考えていないのに、まるで宣戦布告するかのようなメッセージを送るのは危険である。
 このような「意図」と「能力」の読み違え、発信間違いは、ときに重大な結果をもたらすことがある。第二次世界大戦もそうであった。危険な相手、危険な時期ほど、コミュニケーションが大事なのである。相手の「意図」を正確に読み取ることができなければ、危機に対処できようはずもない。相手がけしからんからといって、自分の耳と口をふさぐようなことをしてはならない。
 このように、関係国の間で安保対話を深め、透明性を確保して信頼醸成を図ることは、きわめて大事なことである。朝鮮半島をめぐる米、中、韓、北朝鮮、それに露、日本を含む六者協議を出発点として、北東アジアの平和と安全を確保するため、多国間の安保対話の場を設けることから始めることになろう。
 将来に向けて、国連との協調の下に、東アジアにおける集団安全保障体制を構築していくとすれば、日米安保体制をベースとしながら、中、露を加えた四カ国を機軸に、現実的で実効ある建設的なシステムを検討していくべきである。対話・協力の世界から実行力ある行動の世界までの距離は長いが、国連と米国のポジションを見極めながら、アジア的な知恵で紛争解決のために真に意義ある構想を模索していきたい。
 当面、このような構想と並行して、アセアン地域フォーラム(ARF)の強化拡充により東アジア地域の平和と安全に貢献することが期待されている。今のところは欧州におけるOSCE(欧州安全保障・協力機構)にはおよばないが、やがてアジアにおいて紛争解決のために有効に機能する現実的な協議の場となるだろう。

集団的自衛権と憲法解釈
 今まで述べてきたのは、「日本が行なうべきことは何か」という政策論からのアプローチである。しかし、従来の防衛問題の中心テーマは、むしろ「憲法上日本にできることは何か」という法律論であった。
 大戦直後にできた日本の憲法は、理想的な国際秩序を追求する国連憲章と軌を一にしている。つまり、国連は自前の陸海空軍を使って紛争を抑止することを使命とする一方、日本国憲法は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意し」「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」こととされた。
 しかし、現実には、冷戦に突入して国連は自前の軍隊を持つことができず、もっぱら「集団的自衛権」に基づく同盟関係が力を持つことになった。これに平仄を合わせるように、日本国憲法の解釈も、当初は文字どおり戦力は保持しないとの考え方だったが、その後、自衛のための必要最小限の実力を保持することは憲法に反しないという解釈が定着するようになり、「個別的自衛権」の下、自衛隊を保有するに至った。
 ただし、必要最小限である限り、直接、自国が攻撃されていないときは発動できないということで、集団的自衛権は国連憲章にもある主権国家固有の権利としながらも、その行使は一貫して憲法に違反するとされている。したがって、日米安保条約は、国連憲章の集団的自衛権を援用しつつも、日本は個別的自衛権の範囲で対応するという考え方の下で成り立っている。

不毛な憲法解釈論
 憲法解釈論というのは非常に難しい。聞いていてもよくわからない。
「……陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とあるにもかかわらず、条文を変えずに自衛隊と自衛権の行使を容認しようとするから、普通に読んでもわからない読み方をしなければならなくなる。憲法の条文は小学生でも普通に理解できる文章にするのが本当だろう。政策は変えても条文を変えてはいけないという戦後の呪縛が、解釈論をゆがめてしまっている。
 すでに述べたように、冷戦後のアジアをめぐる国際情勢においては、個別的自衛権の問題から、集団的自衛権のほうに大きく関心が移ってきている。しかし、日本では、集団的自衛権は持っていても行使できないということで、何ができて何ができないかという憲法論がひたすら繰り返されてきた。ここでは、何をすべきかという議論と何ができるかという議論、つまり「政策論」と「解釈論」の混同が、非常に不幸かつ不毛な議論をもたらしていると思う。

 憲法を守れと言う人は、ひとつには、日本が国際紛争に巻き込まれるのではないかと怖れて、集団的自衛権の行使に消極的である。
 しかしそれは、自分は手を汚さなくても、他人、つまり国連や米国が「平和」を与えてくれるはずだ、という出発点に立っているとしか考えられない。
 私は、これまで述べてきたように、世界の平和と安全のために、日本は、国際的な責任を果たすべきだと考える。仮に国際紛争が発生した場合、一国平和主義を取り得ない日本としては、相応の負担を受け入れ、その責任を果たすべきではないか。
 しかしこれは、憲法や条約の解釈の問題ではない。覚悟というのは、あくまで国民の選択の問題である。
 もうひとつ、集団的自衛権の行使に消極的な人は、仮に日本が地域の平和のために善かれと思っても、過去の行動によって周辺諸国から不信感に満ちた目で見られている以上、集団的自衛権を行使すべきでないと主張する。
 しかし、集団的自衛権とは、国連憲章でも認められた主権国家固有の権利であって、そのこと自体を否定する人はいないだろう。立場を逆にすれば、周辺諸国も当然、集団的自衛権を行使することができる。日本も権利を行使するからといって、国際法上問題視されるいわれはない。
 問題なのは、「集団的自衛権を行使しない」という、戦後一貫した日本の方針を変更する場合、具体的に何をどう変えるのか、あるいは何を変えないのかがわからなければ、まさに周辺諸国との信頼関係を損なうことになる点である。つまり日本は、アジア太平洋地域の平和と安全のために、国連や米国との協調のもとで、具体的にいったい何をしようとしているのか、侵略でもなく内政干渉でもない、集団的自衛権を行使する具体的なケースについて明確なドクトリン(政治・外交上の原則)を周辺諸国に発信することが重要なのである。

憲法改正
 このように、集団的自衛権の問題は、法律論のように見えて実は法律論ではなく、本質的に国民の選択の問題であり、外交政策の方針転換の問題なのである。
 これを憲法解釈の変更という形で行なったらどうなるか。解釈の変更は、単に、内閣として国会で答弁してしまえばそれでおしまいである。しかし、国民はいったい、いつその選択をしたのか。それで納得できるのか。諸外国は、日本外交の突然の路線転換にどう対処すればいいのか。
「日本政府は、いったい何を考えているのか」という不信感が、国内においても、国外においても高まるだろう。なぜかと言えば、二つの作業、すなわち、国民全体の合意形成と諸外国の理解に向けての努力(これこそ、まさに政治が汗を流すべき問題であるはずだ)を抜きにして、このような大問題を処理することになるからである。国民的議論を経ずに、解釈を変えて事足れりではないはずだ。
 私は、集団的自衛権の行使を認めるべきだとの立場から、堂々とその必要性を国民に訴えていきたい。その合意形成ができたならば、整々と憲法改正手続きを経るべきだと考えている。
 けっして、憲法改正、先にありきではない。
 まず、中身をどうすべきか、つまり、集団的自衛権をどう考えるかという政策論があって、その政策を実行するために、国民にどのような形で選択肢を示すべきかという方法論がある。そのなかで、国民の納得と諸外国の理解を得るために、解釈の変更ではなく、憲法改正の手続きをとるべきではないかと主張している。このことを私は真摯に訴えていきたい。

有事法制の整備
 言うまでもなく、国家の安全は、外交努力などの非軍事的手段で確保することが望ましい。しかし、安全保障は相手のある問題であって、まさに保証がないからこそ、国民の安全に責任を有する国家が、防衛力を整備して、侵略を排除する意思と能力を示す。防衛力は国家の安全を最終的に担保するものであって、その機能は、他のいかなる手段によっても代替できない。
 防衛力の機能は、もちろん侵略の「排除」だが、相手国に侵略の意図を起こさせないよう侵略を「抑止」することに第一義的な意味がある。日本は、「基盤的防衛力構想」を基本に、着実な防衛力の整備を図ってきたが、いかに高価な最新兵器の数をそろえてみても、ロジスティックス(後方支援)や要員の訓練、交戦規定など、制度面を含め、実戦を踏まえた整備をしなければ、いざというときに動かない。
 日本は、ハード面では世界有数の近代的装備を備えるに至ったが、いざ有事の際、具体的にどう対応するかというソフト面では、思考停止してしまっている面がある。有事のことは、国民が考えたくなかったからである。そうなると、本来、防衛力が持っているはずの抑止機能すら働かない。それでは、何のために防衛費に毎年五兆円近くも使うのかということになる。
 具体的に例を挙げてみよう。いざ敵が攻めてきても、有事法制がない以上、陸上自衛隊の戦車は私有地を通行できない。公園であれ海岸であれ、所管官庁の許可なくしては陣地の構築もできないし、夜間の火薬の積み下ろしもできないことになる。実戦になれば、こうしたことは、すべて超法規的に行なわれることになる。
 捕虜の取り扱いなど、人道に関する条約についての法整備もいまだに進んでいないし、医療や被害補償など、国民の生命財産を守るための法制や措置ですら検討されていない。
 自衛隊の行動に必要なソフト面の整備は、単に防衛庁だけの問題ではなく、平時のことしか考えていない多くの官庁や自治体などが、自分自身の問題として議論しなければならない。しかし同時に、これは国民一人ひとりも逃げてはならない問題なのである。
 戦後、日本は、幸いにして国家存亡の危機に直面する事態に遭遇することなく過ごしてきた。敗戦の記憶、戦争を忌避する気持ちが、戦争を現実的に考えることを妨げたという事情も、無理からぬところはある。
 五五年体制の下、政治的に有事のことを議論すること自体、問題視された時代が長く続いたこともある。
 今、国家全体として、どのように有事に臨むかという視点を欠いたまま、国家・国民を語ることができるだろうか。先進諸国のなかで、有事法制が整備されていないのは日本だけである。国家であれば、当然、考えておかねばならないことであり、戦後、似たような経過をたどったドイツでも、当初、非常事態条項はボン基本法になかったものの一九六八年に追加され、そのまま統一ドイツに引き継がれている。
 危機管理体制が、内閣と政治主導の下で進められている今日、危機の最たる場合である有事において、法制整備の遅れのツケを国民に回すことがあってはならない。