第T部 品格ある国家


第1章 国家と国民


国家は国民の敵か
「国家」という言葉に抵抗感を持つ人がいる。「市民」という響きを好む人に多いようだ。
 たしかに、戦前の国家主義の傷跡は大きい。エンゲルスは、国家とは階級の対立を制御する必要性から生じたものと言った。しかし、国民と対立関係にあった統治機構としての国家は、戦後になって徹底的に否定された。
 民主主義は天から与えられるものではなく、日々の努力により獲得されるものである。民主主義国家となった以上、私たちの国家は私たちのもの、と胸を張って言えるはずである。ところが、今もなお自分たちと対立するものとして「国家」を考え、それを敵対視するとすれば、いったいこの国家の成り立ちをどう考えればいいのだろう。
 国民の総意の下に、国民の意思に沿った統治機構をつくる装置(間接民主制)を私たちは持っている。その結果できあがったものは国民の意思の反映である、という前提を受け入れないとすれば、民主主義も受け入れない独善主義となるのではないか。
 私は政治批判をするなと言っているのではない。民主主義というこの国家の成り立ちを是とするのなら、「市民派」の人も進んで自分たちの「国家」を語るべきではないか。
 たとえば、星条旗を片手に国家を語る米国人の姿に、そのような自信に満ちた表情を見る思いがする。私たちも、「自分たちの国や政治家はまことにつまらないものでして」と卑下するのは、そろそろやめようではないか。つまらないものだとしたら、自分たちの国家をいいもの、誇れるものにする責任が国民にある。
 なぜなら、国民には、それができるからだ。安全で美しい日本、柔和で教育水準の高い私たち日本人の国家は、大きな潜在能力を持っている。外国に支配されているわけではない。自分のことは自分で決めることができるはずである。
 私は日本を誇り高い「品格」ある国家にしたい。

国家の尊厳と外交
 もともと「国家」とは、国際法上の概念である。
 たとえば、日本が地殻変動で海中に沈んでしまったとする。しばらくして陸地が浮かび上がってきた。そこに人が住むようになる。一定のルール、秩序ができ、社会システムができる。それだけなら、まだ「国家」ではない。
 外から新たに人々が入ってきて、前の秩序を壊し、その地域を支配しようとする。新たな権力に支配され、併合されてもかまわないのなら、それでもいい。しかし、もし、外からの支配勢力に抵抗し、実力で侵入を阻止しようとすれば、一定のテリトリー(領域)と民を実効的に統治する組織が、はじめて「国家」として認識される。
 領土、国民、統治機構が「国家」承認の三要素である。「国家」という言葉は、結局、外国との関係において意味を持つのである。
 独立国家であろうとすれば、その国民には、当然、国家を守る義務が生じる。国家の独立を守る人は、その国民しかいないからである。このように、国防の義務というのは、国家の独立という抽象的で崇高な理念に由来するものである。諸外国の憲法にも、この義務については触れてある。ちなみに、日本国憲法には、国家を守る義務は定められていない。

国家を守るのは誰か
 ローマの昔、兵役は、市民権を持つ自由民だけが負う直接税的な義務であったが、それは同時に名誉であり、選挙権をともなう特権でもあった。属州の人民には、納税の義務だけで、兵役は課せられなかった。他方、カルタゴは、経済的繁栄を誇ったが、その軍隊はカネで雇われた傭兵だった。
 カルタゴはローマに三たび敗れ、外交の誤りによってついに地上から完全抹殺された。その過程で、カルタゴが自ら血を流さずカネで解決しようとして、ローマの笑いものになった話や、約束の履行を小出しにしてローマの不信を決定的にしたエピソードも紹介されている(塩野七生『ローマ人の物語』参照)。今につながるような話である。
 モンテスキューの著した『ローマ史論』には、「ローマ人があらゆる民族に命令するようになったのは、……かれらの叡智、堅忍不抜の精神、その名誉欲と愛国心とに因っていた。しかし、こういう徳義心がなくなると武術だけが残り、やがて……あらゆる民族の餌食になってしまった」と記されている。最強の軍事力を誇ったローマ帝国も、最後は蛮族中心となった軍隊の堕落によって滅びた。
 私は、国民の「勇気」「知性」「感受性」「名誉」「自立心」が、国家の将来に大きな意味を持っていると思う。尊敬に値する国家の尊厳は、人格と同様、一朝一夕にできるものではない。国民性が狭量で閉鎖的、自分に甘く、強い者には弱いが、自分より弱い者にはきついというものであれば、国家の品格も同様なものとなるであろう。

アジアの真の友として
 たとえば、戦後、日本はアジア諸国の真の友人となり得ているだろうか。諸国の信頼を勝ち得るために、私は、外交姿勢としていくつか改めるべきことがあると思う。
 相手が米国であれば、ご無理ごもっともと道理を引っ込めるような交渉態度は、当の交渉相手も含めて国際社会の信頼を失うもとである。米国は、一企業の利益すら国益と同一視して、国家の経済的利益を主張してくる。
 国際社会では、争いを避け、謙譲の美徳を発揮するだけでは、何を考えているかわからない不気味な存在と受け取られかねない。しかも、譲歩したはずなのに何も行動しないということになると、日本とのコミュニケーションは、「脅迫」を通じてしかできないと受け取られてしまう。
 一時的に波風が立とうとも、日本の立場を徹底的に主張し、そのかわり、一度合意したことは必ず実行すべきである。そうした姿勢こそが、日本の発する「言葉」の信頼性を高めることにつながるだろう。
 もうひとつ、これは政府の姿勢の問題というわけではないが、相手が欧米人の場合とアジア人の場合とで態度を変えるようなダブル・スタンダードは、なくさなければならない。日本人は、タテの秩序のなかで自分の居場所を決めようとするところがある。序列が決まると、今度は相手の序列内の地位によって態度を変えてしまう。これでは、国家間の対等な友人関係は成立しない。
 相手によって外交戦略が違うのは当然である。しかし、大国だからといって卑屈な態度をとったり、小国に横柄な態度を示したりすることは、国家の品格を失わしめる。
 日本は、まずアジアにおいて、カネの力でなく、いざという場合に頼りにされる本当の意味の友人になるべきだ。それは、謝罪外交によっては得られない。国家として信用されなければ、どの国も日本を真の友好国と見てはくれないだろう。

自立自尊の精神
 自立自尊の精神のないところに尊敬される国家はなく、民族の繁栄もない。
 誰にも依存せず、自分でやって責任を取れというのは、大変厳しいことだ。自立自尊は甘えを許さない。
 ここ数年間、日本は行政改革と規制緩和に明け暮れた。経済構造改革、財政改革に関して、総論については異論がなかった。しかし、国民一人ひとりにとってみると、現実に現れてくる影響は、自分の生活のかかった生きるか死ぬかの厳しい話である。私たちは自分に厳しいことを決断し、実行できるだけの自己統治能力を持っていると言えるだろうか。
 経済政策、社会保障政策についても同様である。国家にサービスを求めることは、国民に負担の増加を求めることと同義のはずである。国民以外に国家の負担を引き受ける人はいない。サービスを求めておきながら、負担を引き受けない国民ばかりでは、国家として成り立つはずがない。
 政策によって財の移転が起こるのは当然だが、国民のなかで誰かが負担していれば、たとえ不公平があったとしても民主主義の手続きに則ったものだから、国民全体としてモラル・ハザード(倫理の欠如)の問題が起こることはない。
 ところが、投票という意思決定プロセスに参加できない「国民」に借金の負担だけ押し付けたとなると、それは決めた人の勝手ではすまされない。「投票に参加できない国民」とは、子どもたち、そして、まだ生まれていない未来の「国民」である。今を生きている大人たちは、自分たちの受益分ぐらいは負担しなければいけない。

国民の権利と義務
 日本国憲法の第三章「国民の権利及び義務」には、数多くの自由や権利に関する規定が置かれている。これらは近代国家発展の歴史のなかで獲得された成果である。他方、義務については「教育」「勤労」「納税」の三つだけだ。
 戦後教育において、権利の主張は強調され、義務や責任を学ぶことが少なくなった。他の人が持っている権利に配慮することよりも、自分の権利を主張することが優先され、利己主義に走り過ぎているのではないか、そのような反省の声はけっして小さくない。
 自分のことを自分で決めることのできる自由と権利を持っていながら、実際には、それを行使しないで安易に国家に頼り、その裏返しとして国の責任を声高に叫ぶような精神が生まれているとすれば、残念なことである。
 社会に対する個人の責任ないし義務、あるいは自己責任という考え方から、憲法が、国民の権利と義務のバランスを踏まえているかどうか、本格的に議論してみる価値があるのではないかと思う。