【政策提言】私が描く国家像


今まさに、二〇世紀が終わろうとしている。  西暦二〇〇一年は新しいミレニアム(千年紀)の始まりでもある。最後の審判の後、訪れる「至福の千年紀」は、キリスト教徒にとって幻想ではない。では、私たちにとって、現実に訪れる二一世紀、近未来の二〇一〇年は至福の時代となるだろうか。  もともと日本には世界に通用する非常に高い精神性を持った文化があった。ところが、西欧文明が世界を支配し、その優位を認めてしまった現代の日本は、欧米人以上に物質還元主義に毒されてしまい、モノに化体されたものにしか価値を見出さなくなってしまった。  いったい日本人の心はどこにいってしまったのか。本来の自分を見失ってしまっているのではないか。  人類の誕生から今日まで、気の遠くなるような長い時間がたった。一方、物事の変化する時間は徐々に短くなってきている。人口爆発、貧困、かたや少子・高齢化、そして、環境悪化、民族・宗教の対立、家庭の崩壊、青少年犯罪の増加……。  生活も、文化も、文明も加速度的に変化していくなかで、あまりの変化のめまぐるしさに、私たちはこれから進むべき方向を見失いかけてはいないか。人間はさまざまな問題を解決できるだけの英知を持ち合わせているのだろうか。  日本は、明治維新後、一〇〇年以上にわたって、欧米諸国に「追いつき・追い越せ」を目標としてきた。その目標がおおかた達成されたと感じた今、それに代わる国民と国家の目標を見出せないでいる。理想的な国家像とは何か、どういう社会にしたいのか。  戦後、資本主義と共産主義という思想的対立を背景に、日本の政治状況も大きく二分された。保守・革新という流れのなかで、厳しい対立が続いた。だが、冷戦構造の崩壊と軌を一にして日本の五五年体制が崩壊した今日、従来の党派の枠組が受け止めきれなかった無党派層の大群は、いったい政治に何を求めているのか。  このような時代認識と問題提起に対して、政治はどう応えていくべきか。  私は、まさにこれが政治家の使命だと考える。私が、この論考で特に明らかにしたいことは、どのような認識の下に問題を解決するのかという「視点」と「方向性」である。  その大きな方向性を示すなかで、具体的に日本をどう変えていくのか。これまで日本が大きく変わったのは、いつも「外」からの改革によってであった。  今、選択肢は「内」にある。  二〇世紀と二一世紀を結ぶ政治家の責任として、問題解決のために内側から自己決定していかなければならない。そのための政策提言を、私は「品格」「活力」「安心」の三つのキーワードを軸に、国民の選択肢として提示してみたい。

品格ある国家 - 世界の平和とアジアの成長に貢献  
平和は、日本の繁栄の土台である。経済も、国民生活の安定も、国際社会が平和であればこそ可能なのである。恒久平和を願う私たち日本国民の気持ちは、誰よりも強い。 「日本は、外国を侵略する意図はない。外国に脅威を与えるような軍事大国にならず、専守防衛に徹し、武器輸出は行なわず、核武装する意図はない」。このことを日本は周辺国やアジアに向かい、あるいは世界に向かって繰り返し表明してきた。諸外国に不信の念が生じているというのならば、私は何度でも繰り返して断言する。  ただ、よく考えてみると、そこで言っていることは、「自分は○○をしない」ということだけである。自分さえ何もしなければ、世の中は平和になる。それは本当だろうか。  平和は与えられるもの、自分が壊さなければ維持できるもの、という思い込みが、第二次世界大戦の残像が消えない私たち日本人の脳裏に刷り込まれている。脳裏だけではない。憲法には「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意し(前文)」、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない(第九条)」と明記されている。  ところが、国際社会の現実は、日本人のイマジネーション(想像力)をはるかに超えていた。国連の活動や世界各国の献身的努力を通じて、「平和」は努力して創るもの、血を流して守るもの、であることを私たちはまざまざと見せつけられてきた。  他方、戦後の平和の恩恵を最も享受してきたのは日本である。日本は、国際社会でこのような姿勢のままで生きていくのか。恩恵だけを期待し続けるのか。  私は、日本が、心から平和を愛する国民ばかりが暮らす国であるとともに、世界平和のために貢献する国家でありたいと思う。憲法も、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ(前文)」と言っている。悪いことをしないというだけでなく、皆のために役立つことをするつもりだと、世界に向かって表明したい。  そのためには、まず、私たち国民自身に、貢献することについての覚悟が必要である。「貢献」とは、言葉はきれいだが、実は、もらうのでなく与えること、享受するのでなく負担することを意味する。きついことは誰でも避けたい。しかし、逃げるわけにはいかない。私たちも、ともに負担しようではないか。そう国民に語りかける時期にきているのではないかと私は思っている。  貢献は、もちろん安全保障の面ばかりではない。日本に最も期待されているのは経済面の貢献である。日本は、これまでもODAなどを通じてその期待に応えてきたが、アジア経済全体が非常に厳しい今、単に経済協力という意味だけでなく、日本経済の再生自体が重要な貢献と言える状況になっている。さらに、これからは人的交流による「ヒト」の貢献、「知」の貢献も重要となるだろう。  これらを通じ、私は、アジアに軸足を置いたさまざまな政策を有機的に結び付け、外交政策を貫く大きなテーマとして「アジアとの共生・共働」というメッセージを発信したい。

活力ある経済 - 実質三%成長は可能か
国際貢献のためにも、また、国民の福祉のためにも、日本経済の「活力」が、まさにキーポイントである。ここがすべての源泉であり、問題解決の鍵である。国民のモラルの高さ、技術力、教育水準、変化への対応力、独立不羈の精神などがあいまって、「活力」を生み出し、明るい未来を創造していく原動力になるものと信じる。  経済・社会を担っているのは国民である。共産主義国における国家計画経済の時代のように、国家への依存心が国民の間に蔓延すると、国民負担率はたちまち五〇%を超え、やる気が阻害されて肝心の「活力」が失われ、国家を滅ぼすことになってしまう。手取り足取り細々したことまで手を出すような政策は、依存心ばかり助長して、国民の精神を弱くする。  経済政策は、それ自身が「活力」を生み出すわけではなく、呼び水・環境整備としての役割を果たすものである。経済活力を生み出す産業の強い競争力を育むのは、本来、自立・独立した強い国民の自発的創造性だ。私は、それを大事にしたい。強い自立的国民の努力があれば、実質三%程度の経済成長もけっして夢ではないし、財政再建も、適正な福祉水準の維持も可能である。

安心できる社会 - 安心・安全・「ヒューマン・セキュリティ」
「活力ある経済」が生み出す豊かさを、国民一人ひとりの生活に反映させ、「安心できる社会」を実現しなければならない。  私たちは、かつてない速さで到来しつつある少子・高齢化社会の入り口に立って、働くこと、長生きにともなうこと、健康、介護など、たくさんのリスクを感じている。国家としても、財政運営、年金制度への不安、産業の国際競争力の低下、介護要員の不足など、いくつもの不安要因が渦巻く。  こうした不安に、明確な処方箋を示し、一人ひとりが生きがいを持って、心豊かに生活できる空間や環境を創造していくことが、「安心」の分野における私の政策テーマだ。  さまざまなリスクをカバーするのは、基本的に個人の自立自助である。しかし、年金や医療、介護制度などの「セーフティ・ネット(安全網)」の構築は、公的部門が受け持つべき重要な施策である。  今日、さまざまな改革論議があるが、大切なことは信頼性の高い「ネット」をつくり上げることだ。社会の安全装置のなかには、民間ではどうしてもうまくいかない分野がある。公的部門は、まさにそうした分野に優先的に力を注ぐべきだ。  いつ起こるかわからない災害から国民を守る防災対策や、国民に不安をもたらす各種の犯罪に対処し、治安を維持する「安全」の分野も、公的部門が行なうべきことである。これらと合わせ、良好な環境、美しい国土・都市、良好な居住環境を備えた本格的な住宅など、社会資本の効率的な整備もおろそかにできない。  政治の使命は、「ヒューマン・セキュリティ(ヒトの安全保障)」が完備した舞台を用意することだ。私は、こうした舞台の上で、国民一人ひとりが活き活きと創造的な活動を展開できる社会を実現したい。

私の頭のなかには、このような国家像がある。それを実現するための具体的なデッサンをこれから描いてみたい。