山崎拓が率いる「近未来政治研究会」は 一貫して「憲法改正」を議論し、 近未来のあるべき憲法を模索してきた。 頻繁に闘わされる議論のなかから、 2000年9月23日に栃木県那須で開催された 「近未来政治研究会研修会・新憲法論議」の 白熱の討論をご紹介する。

小杉隆・近未来政治研究会政策委員長:近未来政治研究会は政策集団として、憲法論議を常にリードしてきた。来年の憲法記念日までには我がグループとしての新憲法草案を提示したいと考えており、本日は忌憚のない意見交換を行ないたい。現在は法務大臣を勤めている保岡興治さんの新憲法調査会や先に出版した近未来の論憲集を踏まえ、私が政策専門家グループとともに拾い上げた検討項目をお手元に配布してある。ここに上げた六つの項目以外に提起すべきものがあれば付け加えていただきたいが、議論はこの項目に従って進めていきたい。  なお、今回の議論には日程の都合上、残念ながら関谷勝嗣さん、甘利明さん、岸本光造さん、田野瀬良太郎さん、森田健作さん、北村誠吾さん、畑恵さんが参加できなかった。
 
 

検討項目
1憲法の意義・理念
2天皇制
3安全保障
4国民の権利と義務
5統治機構
6財政・地方自治

1
●憲法とは何か、憲法に何を書くか
●新憲法の基本理念は何か
憲法の意義・理念
前文、第九章(改正)
第十章(最高法規)
第十一章(補則)


山崎拓会長:憲法は国家と国民の関係を律するものであるということを明確にすべきである。  五月の憲法記念日の時に朝日新聞の座談会に出た。相手は菅直人、土井たか子両氏であった。菅直人氏は「私は国民という言葉が嫌いだ。市民という言葉を使うべきだ」と主張した。私は憲法に国民と書かずに市民と書けるのか、と聞いたが、菅直人氏は答えなかった。彼は市民主義という立場をとっている。保守とリベラルと分ければ、彼はリベラルだと言えるだろうが、リベラルとはいったい何かがはっきりしない。彼の言葉をよく聞いてみるとリベラルとは市民主義であると言っているようである。そこで、市民とは何市民であるか、を考えてみると、それは世界市民ということになる。いわゆる国家を超えて人類共通の普遍の真理、普遍の価値に重きを置くというのが、菅直人氏の考え方であり、最近こうした考え方がかなり広がりを見せている。
 たとえば国連においても、国連は加盟しているそれぞれの国々の主権を守るという本来の使命、同時にそのことを通じて国際平和を築く使命を超えて、最近はたとえば民主主義とか人権主義といった普遍の価値を加盟国に押しつけるというか求める傾向がでてきた。これはパックスアメリカーナというか、アメリカがそういう行動をとることが多く、ミャンマーは典型的な例で、スー・チーさんに我々は理解と同情を抱くが、スー・チーさんの人権を守れと有形無形の圧力がかかってくることには、ミャンマーという国家としては主権の侵害ではないか、内政干渉ではないかと反発している。
 憲法は国家の最高法規として国会と国民の関係。同時に国家と国際関係について前文に明確に書くことが必要である。
亀井善之:国家の姿を明らかにすべきという点は会長と同感。私はさらに国民が何を目標とするか、どう行動すべきかという大きな方向性を映し出すものと捉えたい。
渡海紀三朗:渡辺具能さんが論憲集のなかで書いていることに共鳴する。すなわち基本理念には個人の心の問題に触れるようなことは書くべきではない。憲法は理念だから、個人の心を縛るものではないという点を気をつけておくべき。 また、考えなければならないことの一つは九六条改正手続をどう乗り越えるかである。
渡辺具能:君主制度から世界のいろんな国が民主主義になって、憲法ができてきた。そのほとんどの国において、憲法は、君主時代に個人の基本的人権が侵害された歴史を踏まえて、基本的人権を守ろうと書いてある。基本的人権は国家に冒されざるものという精神がどの国の憲法にも見られる。日本の憲法はアメリカにつくってもらったものかもしれないが、敗戦の反省を含めて、基本的人権を守ることを政府に約束させた。国家に対して最低限、これだけは守れと、国民が契約を突きつけたものになっている。国民の義務があまり書かれていないのは成立過程から当然ではないか。
 二十一世紀の憲法は、国家と国民を対立させるものであってはならない。我々は幸福に暮らすために国家につきつけるものではなく、我々自身がみんなで基本的人権を守る。我々が国家なんだ、という意識を打ち出すべきではないか。
 こういう考え方を基本理念に置けば、公的責務とか公共の利益とかの書き方が変わってくるはず。基本的人権と公共の利益を対立させないようにすべきだ。この二つは同じベクトルの上にあるのだという高邁な精神を書くべきではないか。自分の権利を守るためにはこういうことを守ろうじゃないかという自分たち自身を律する憲法でありたい。国家が国民に基本的人権を与えているのではない。国民が互いに基本的人権を尊重して国家を形作るのだ。国家と国民が対峙する存在ではなく、我々が国家であるという認識を打ち出せないだろうか。
大野功統:国民の権利を、国家の横暴から守るものが憲法であった。その時代は過ぎた。国を構成するのが国民であるという意識が大切。帰属意識の問題。最近の日本で危なっかしいのは帰属意識が全くなくなってきていることである。国民が国をつくるのだという意識をもって書くべき。
 新憲法を考えるうえで、心配が二つある。第一の心配は、市民という概念が曲解されて使われかねないという点である。市民という言葉は、英語の辞書には市民の義務が書いてあるが、日本語の辞書を引くとほとんど義務は書いていないで市民権としか書いてない。市民という言葉から日本人が受けるイメージが間違っているのだが、それに気づいていないことが不幸な現象である。ローマ市民には権利も義務もあった。権利ばかりで肥大化した市民という言葉は、曲学阿世の徒が誤って使っている言葉である。国を構成するのは国民であり、そこには義務も責任もある、ということが肝心。

 
 
 心配の第二点は、モノと心のバランスをどう書くかである。今の憲法でも読み取れないわけではないが、日本が目指す国は、平和国家であるだけでなく、経済的にも、心の世界でも豊かな国という理念を書くべき。金がもらえればわが子を殺すような国民では国は滅びる。帰属意識の問題とモノと心のバランスを盛り込んでもらいたい。
田中和徳:ローマ市民は現在のいわゆる市民とは意味が違う。限られた特権階級のことをローマ市民と呼んでいるのであって、一種の世界を統括し、支配している貴族みたいな存在であった。
 現在の憲法が類推解釈、拡大解釈を迫られた背景は、憲法が「不磨の大典」になり、改正のハードルが高過ぎるために、無理な解釈を重ねてくるという悪循環になっている。時代にあわないにもかかわらず変えられないために、道理が通らない解釈をやらなければならなかった。この点を反省して、必要なことはときどきに変えていくことができるという憲法のスタイルをつくるべき。刻一刻と変わる時代に即応する柔軟性を持たせよ。
奥谷通:私は戦後世代で戦後教育を受けて育ったが、小学校の五年生か六年生あたりで学校の先生が、憲法はあなたたちを守ってくれるものだ、国というものは国民にいろいろ犠牲を強いるものだと教えてくれた。その先生は日本が憲法九条に違反しているとも言っていた。今になって思えば、あの先生はどこかの組合の一員だったのだな、と判る。
 我々は政策として品格ある国家を打ち出した。中曽根康弘(元総理)さんが何かの論文に書いていたが、現行憲法は、人権や民主主義など充分に書き込まれていて、世界中のどこの国でも通用する最大公約数的なものになっている。それはそれでいいが、現実の私たちは日本の民族として家族や地域、伝統や文化の中で生きている。そういった日本人ならではのものが憲法に入っていないのは無味乾燥であろうと言っている。
 私は武士道の精神を打ち出したい。武士道は死ぬことと見つけたり、という日本人として恥ずかしくない責任をとるという精神である。士農工商という階級のなかで武士は特別な存在だったが、いざとなれば責任をとって腹を切れるということで尊敬された。日本の土壌から吸い上げたこういう精神が、日本のうちむきだけではなく、国際社会にも打ち出せるものとして憲法に書き込むべきである。
稲葉大和:現行憲法は民定憲法である。制定当時は戦争の惨禍から、再び戦争を起こさないという決意の下に作られた。非武装中立が中心的な考え方になっていた。その後、時代の流れとともに自衛隊が現実の問題としてクローズアップされ、現実をどうやって認めていこうかということから九条論議がさかんに行われている。
 しかし、主権者たる国民が日本の国家に対してどれだけ熱い意識を持っているかというと疑問だ。九九条に規定されている最高法規順守義務は公務員のみに課せられており、国民が省かれているのは民定憲法である由縁である。日本という国家と憲法の存在について気持ちの中に深い重さを持ってもらいたい。当然、主権者たる国民は憲法を順守することが当然だから書かれていないのかもしれないが。国民に対しても憲法順守義務を課するべき。基本理念の中で、平和国家の建設と共に自国の安全は自分たちの手で守る、他国にゆだねるものではないと書くべき。政府官僚を縛る目的の現行憲法から、国民が自分たち自身の規範として定める憲法にせよ、という論調は共通である。
林幹雄:憲法は国民が幸福に暮らせるための国家の基本法であると考えている。議論を難しくしてはいけない。もっと簡素に。判り易く、基本に返って判り易さを第一に議論すべきである。中学生でも理解できる憲法にすべき。どうして?なぜ?という疑問に「だから」と明確に答えられる簡単明瞭な基本を定めるのが肝要。その上にいろいろな応用があってもいい。義務教育で憲法になじむ授業をすべき。
国井正幸:私も林先生のご意見に同感である。国家の基本法である憲法は、まず、判り易いことが第一である。義務教育を終了した人が理解できるものでなければならない。特定の学者が解説を加えないと理解できないような憲法ではだめだ。そして、時代の変化と共に憲法も変わって良いと思う。  要は、日本国民がいかに平和で安心した暮らしが送れるか、それを世界の人々と共に国際社会の中でいかに具現化していくか、大きな国家目標を平易な言葉でシンプルに表現する必要があると思う。
佐藤剛男:判り易さは、別の言葉で言えば順序の問題である。国民主権を憲法の最初に謳い、主権の行使、国民の要件を定めるべきだと考える。
 全般にわたる視点から、改正手続きがもっとも重要。日本の現行憲法は改正手続きができないようになっている。発議要件の三分の二を二分の一にするような手続きを容易にすることを柱として考えなければならない。
 また、我々が今、悩んでいるのは連立である。衆議院では半数をとっていても参議院では単独で過半数が取れず、問責決議案が通ったり、予算関連の法律が通らないということが起きる。首班指名と予算だけでなく、法律も衆議院優先にすべきである。参議院に一定条件をつけて、だめなら衆議院を優先させる制度をつくらないと駄目だ。連立の歪みに通じる。
 第一章には天皇ではなく、堂々と主権の問題、国民主権を書くべきである。
 九条改正は難しいから九条抜きで改正しようという議論があるが、九条は抜きにしてはやれない。九条は一緒に改正すべきだということを近未来の合意にすべき。国民投票で内閣がいくつか飛んでも仕方がない。
自見庄三郎:憲法前文に「家庭」の大切さを入れたい。
 
 
2
●天皇を元首とするか
●国事行為の追加、修正を行うか
●女帝を認めるか(皇室典範)
●「国民の総意」を残すべきか
● 第一章は「国民」ではないか


天皇制
第一章(天皇)


大野功統:元首とはなにかを世界的に考えると、外交官の認証を行なうものが元首である。その点では、天皇は元首である。アメリカの大統領は英語では男性形だが、実際には女性の大統領を認めており、我が国も女帝は認めてもいい。
自見庄三郎:天皇の規定は現行憲法でいいと思う。国政に関する権能を有しないというところがポイント。長い歴史があり、民族の伝統であり誇りである。権限は一切与えないというところをあいまいにしてはいけない。女帝は推古天皇など過去にもおられたわけで、男女平等社会の象徴でもある。 木村義雄:天皇制存続のためには女帝は認めないわけにはいかない。
渡辺具能:皇族から降下して嫁いでいた場合にはどうするのか。女帝にもどるのか。男子に譲るというのは、そういうことがあるからではないか。
小杉隆:皇室典範などをよく調べてみたい。

3
●自衛隊(軍隊)の存在を認めるか
●集団的自衛権の行使を認めるか
●どのような場合に、海外における武力の行使を認めるか
●緊急事態に対応するための規定を置くか
● 非核三原則について規定を置くか


第二章(戦争の放棄)
安全保障


渡海紀三朗:自衛隊は認める。集団的自衛権は当然認めるべき。これまでの国会答弁での内閣法制局の言い方がおかしい。国連憲章五一条で定められた集団的自衛権は当然の権利として保有しているが、憲法上の制約があって使えないと言うのではなく、平和国家として国連五一条の権利は持っているけれども国民の意思として使わないというべき。憲法は国連が認める権利を認める形に改正するべきである。
 ただ、非核三原則は、ここについてはよく判らない。現実に日米安保条約の下で公文書やライシャワーの発言などがあるなかで、白々しくこれを言っていいのか。むしろ、会長の見解に任せたい。
山崎拓:非核三原則を考えると、化学兵器はどうするんだ、ということになる。むしろ、憲法ではなく安保政策としてどうするかということではないか。政策として判断すべきものであって、憲法に書くべきものではない。
大野功統:海外における武力行使を規定する条項に国連とか条約を明確に位置づけて書く。単独ではやらないということを明確に。厳しい歯止めが必要。たとえば国連決議に基づくとかといったものだ。
山崎拓:集団的自衛権の問題について、内閣は、憲法上有しているがこれを行使しないと言っているが、法制局長官が答弁している。持っているが行使しないというのは政策であって、政策について法制局長官が答弁する権限を持っていないはずだが、多年にわたってこれがまかりとおっている。これを指摘しておきたい。
渡海紀三朗:昭和五六年に、政府の正式見解として憲法上行使しえないという見解が出でいる。これが間違いであることをクリアにすべき。アジア版NATOなど集団的安全保障をやる場合に、我が国も集団的自衛権が使えるということにしておかないとモノが言えない。平和を創造する主体的発言ができない。参加すらできないのでは交渉権が無くなる。使えるということを明確にすべき。このままではアジア版NATOに入れない。
原田義昭:日本が国連の安保理事会のメンバーになれるかもしれないとき、二十一世紀には現実の問題として考えなければならない。自国そのものを防衛する以外に、国連軍とか多国籍軍に日本がどこまで参加できるかについて明確にすべき。常任理事国に手をあげれば無関係ではすまない。
国井正幸:現実の国際社会では、宗教上や民族の対立を含め、幾多の紛争が起きている。国連憲章第六章には、紛争の平和的解決、第七章には平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動が規定されている。我が国が加害的立場で紛争の当事者となることはないし、また、決してならないことを憲法に明記した上で、国連憲章に定める集団的自衛権が行使し得るようにすべきと考える。今日的には、個別的自衛権に裏打ちされた集団的自衛権の行使こそ、平和維持には必要なことだと思う。
小杉隆:この件については最終段階で意思統一を図りたい。

 
 

4
●権利と義務のバランスの観点から、公共の福祉の概念を明確化するか
●環境権・環境保全義務を明記するか
●新しい人格権をどこまで盛込むか・プライバシーを守る権利/プライバシーを尊重する義務
/知る権利/情報公開義務/高齢者・身体障害者の人権等
●国家の宗教活動、宗教団体の政治活動をどこまで認めるか
●公共的事業遂行のために財産権の制約を強化するか
●教育権の主体を明確化するか
●国を守る義務を書くか
●国民の憲法擁護尊重義務を書くか
●緊急事態において、国民の権利の制限を認めるか
●選挙権だけでなく選挙権を行使する義務(投票義務)を書くか
● 外国人の参政権を認めるか


第三章(国民の権利及び義務)
国民の権利と義務


保岡興治:国民主権という理念は自治の理念である。日本の場合には、統治システムとして自治の精神に沿った制度はできているが、国民の意識はお上主義。実質的には自治の意識よりお上の意識のほうが色濃くある。そういう意味では憲法が謳っている国民の権利はまだ実現されてない、と考えられる。
 自由や権利ばかり強調しているというが、和の精神が文化として、どちらかというと自治というよりみんなで村の社会をつくっていくという風潮があって、個人の権利や自由が明確になっていないという文化が色濃くある。一方で個人の権利や自由は強調されるが、義務が薄いという傾向がはっきりしている。これは自治との関係に深く迫る。公と個との関係がはっきりしていない。利害の調整ではなく。心理的にも、みんなと仲良くしているといいが、自分のことばかりでは幸せはないというところが日本の文化は渾然としている。権利があるようでない、義務があるようでないという建前と文化の関係が、あるべき社会をどうつくるかという憲法では、国民の自治についても公と個の関係を整理する視点を大切にすべきだと考える。
山崎拓:判り易く言うと、読売新聞の憲法改正試案では、「公共の福祉」を「公共の利益」と言い換えろと提案している。たとえば成田空港で一坪地主が居座っていても憲法違反ではないということになっているが、公共の福祉というとちょっと判らないが、公共の利益には明らかに反している。そこに住んでいないで外から来た人たちが一坪地主になっている。土井たか子さんも沖縄の一坪地主だそうだが、彼女は護憲派だから、現在の公共の福祉には反しないと言うかもしれないが、公共の利益には反する。公共の利益と言い換えることについては皆さんどう考えるか。
山内俊夫:私も国民の権利と義務の整理が新憲法の最大の課題だと思う。先程山崎会長が示した朝日新聞の憲法論議の記事を見ると、菅直人さんが、私有財産は絶対だという誤った解釈が生まれ、オレの土地なんだから空き地にしようが、ゴミ焼却場をつくろうが勝手なんだと、この条項には公共の福祉に適応するようともある。公共の概念は市民・自治の共通のルールなのに、日本ではお上になっている。前半は良かったのに後段になると急に彼の訳の判らない論法が出てくる。これに対して、山崎会長が、憲法は国家と国民を律するものである、先程言った市民自治というのはあいまいで情緒的であると言うと、菅直人さんは、市民自治という言葉に山崎さんが引っかかるとすれば、国家の下に国民があると考えているから、ベクトルが違う。明確にここで、菅直人さんは国家を国民の敵として敵視する姿勢を見せている。土井たか子さんになると、憲法は国家権力のありようを律するものであるという完全に違った考え方を言っている。公共の福祉を口実に過度に個人の権利や自由を制限するのは公共の福祉という原理への逆行である。権利が多過ぎて義務が少ないという人たちは、個人より国家権力を重く見る。そこが問題だ。とシーラカンスのような議論をしている。彼女は現行憲法が個人と国家の権利のバランスがとれていると言っているが、昭和二十一年の三月に新憲法が提示されたとき、森さんという専門官がずばり言っているのは、個人の権利を保証しているのは大変良いことだが、国家の権利があまりにも少ない、バランスが取れていないと明確に指摘している。今回、改正するのであれば、国と個人の権利のバランスをとることが重要だと思う。
渡海紀三朗:公共の利益という言い方ででいいと思う。私はNPO法案の三党調整にも参加させていただいたが、その際常に問題になったのは、公共の利益、すなわち公益を誰がどこで判断するのかということだ。たとえば、英国はNPOの税制措置を与える場合は第三者機関を設けて、国家権力から距離を置いた機関をつくってやっている。これを日本の場合、霞ヶ関が判断するというのでは国家利益そのものになる。公共と国家は必ずしも一致しないという論理を組み立てて議論しているのはおかしい。憲法改正にあたっては、公益を判断する仕組みを考えた上で、公共の利益を規定する必要があると思う。
遠藤武彦:今の学校教育の中で、教科書でもそうだが、国家とは何かが論じられていない。国土と国民があって、そこに統治機構が必要になる。統治機構は権力の基盤なしには統治できない。法治国家であるという大前提がある。法治国家は国民に忠誠心を求めている。今の教育は不思議で、国家は悪であるとの考え方になっている。物理力を悪と見るのだが、物理力とは軍事力や警察力である。国家は統治機構を持つかぎりは国土と国民を守るのが当然だから、治安と防衛安全保障は一体であるというのが当然である。これをばらばらに論議しているのはおかしい。国家の悪だけを強調して教育しているのはおかしい。たとえば第二次大戦の責任論は軍部と財閥に押しつけて、国民には責任を問うていない、一人一人に根本を問いかけていない、時局、政局に応じて九条解釈がくるくる変わるようなことはおかしい。はっきりしたことを言うと内閣の責任が問われるから、役人である法制局長官が答弁に立ってつじつま合わせをやる。総理大臣が答えるとつじつまあわせができないから、こんな馬鹿げたことが起きる。つじつま合わせを何故やらなければならんかというと、やはり根本に国家とはなにか、憲法の意義とはなにかという議論が欠けているからだ。まず国民に忠誠心を求めているのだ。国が我々国民にどのような権利を認めるかということは後回しでもいい。この国に住んでいるなら、まずこの国に忠誠心を持ちなさいということだ。私はそういう問題だと思っている。
田中和徳:公共の利益は多数決主義でやるしかない。新憲法をつくるときも最後は多数決なんだから、いろいろ論ずると裁判所の仕事ばかり増えて、解釈や答弁が複雑になって難しくなる。多数決主義を原則として公共の利益を決するということでいい。

 

 
 

渡辺具能:憲法論議の中でここが非常に重要だと思う。憲法には国民の権利と義務、統治機構、国防の三つの柱をを書けばいい。権利と義務が憲法の半分くらいを占めて当然だと思う。今の社会が、権利の濫用に傾いているという現実は憂うべき。公共の利益というより公共の権利といってもいいくらいだと思う。これを新憲法で明確に取り戻すことが必要ではないか。  そもそも権利という言葉の翻訳が間違いではないか。英語でライトという印象と、日本語の権利という字句から受け取る印象が違いすぎる。この誤訳が国民の誤った権利の濫用につながっているのではないか。しかし、公共の権利を守ることは強調されるべきだが、公共の利益の濫用も極めて起こりやすいことにも充分留意するべきだと思う。そのことに心して憲法を書くべきである。基本的人権なり国民主権があって初めてこれを守るために公共の利益があるという概念をしっかりしておきたい。権利の表裏一体のものが公共の利益であるとして守らなければならない。やはり、個人の権利は侵されやすいということを基本において、今は行き過ぎているかもしれないが、多少は個人の権利を強調しておくべきだと思う。多数決でないと裁判所の仕事ばかりが増えるという指摘があったが、それは、民主主義を覚悟して採用した限りは、ある程度のコストがかかるのは仕方がないと思っている。それなら民主主義をやめてしまうかということにもなりかねない。程度の問題だが、公共の利益の書きぶりを、基本的人権を守るための表裏一体のものとして公共の利益と書くべきであって、あまり公共の利益に踏み込みすぎてはいけないと思う。
自見庄三郎:憲法上の自由と権利について考えてみると、思想、良心、信教の自由、表現や言論、学問の自由など憲法には自由が多い。戦前の戦争を引き起こした体制への反省、反動があって、憲法の自由とか権利の解釈に戦後の米ソの冷戦の状況の下でマルクス主義者が入り込みすぎたと考えている。日本歴史学会などがマルクス・レーニン主義の牙城になっているという指摘があるが、商業主義の社会にも同様に、テレビの報道分野などは、言論の自由、報道の自由と言っているが、実質的には、簡単に言えばマルクス・レーニン主義者が日本国を転覆させようとしてしっかり組織的に系統的に入り込んできたという長い歴史がある。これは非常に儲けることになりますと、そのことを利用して徹底的に商業主義である。このことが今私が言ったように、たとえば宗教にしても、新興宗教がだいぶ捕まっているが、誰が考えても徹底的に金儲け主義だ。今頃になってあんまり行き過ぎた宗教法人が摘発になったが、自由は自立が伴うのだが、他の西欧の世界でも全て王権に対して自由は血を流して獲得してきたことだから、責任と自立が伴うということは西欧文化の中であるわけである。ところが日本は突然、昭和二〇年に自由と権利が与えられ、まさに米ソの冷戦構造の最前線にあったわけで、そういった日本国の現状を考えたとき、やはり自由がこの社会でおかしくなってきたと思っている。特にテレビのことは言わないが、実際に郵政大臣としてやってきて、本当に病巣、病根がここにある。オレ達には言論の自由があるんだ、何を言うんだとこう言ってくる。実態はマルクス・レーニン主義に支配された商業主義に裏づけされて、堅牢たる権力を創り出している。新憲法案を本当に国民が見て、いいなと思うようなものにするためには、きちっとよく言われるように憲法には自由の前に、自由以上に、自由および権利は濫用してはいけないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負うとその前の条項に書いてあるわけだから、公共の福祉でなく公共の利益ぐらいは今の時代としてはやっていいのではないかと思う。ただし、一人一人の基本的人権は大事だから、個人は弱いものだということを認識して、組織だとか逆に政府だとか警察だとか検察には弱いのだから、基本的人権の部分にも配慮しつつ、今の時代認識として、日本が置かれた戦後五五年の世界状況、国内における戦前の軍国主義に対する真空、そこに入り込んできたマルクス・レーニン主義、それにこびりついた商業主義、そういうことをきちっとやっていくためには、公共の福祉でなく公共の利益でいいと思っている。
亀井善之:自由や権利を言う前に義務と責任の上に平等があるということをはっきり憲法に書くべきである。義務と責任の上に自由や権利や平等があるということを、権利と義務のバランスの面からはっきりしておく必要がある。自見さんの意見に全く同感である。
武部勤:公共の利益を誰がどのように判断するかだが、多数決の原理しかないという意見があったが、天皇制の問題も国民の権利と義務の問題も、後で出てくるであろう首相公選の問題も、議会主義の問題も関連してくると思うが、私は公と個、全体と個の関係であると思っている。  公共という概念はよく判らないが、全体と個ということで考えると世界と日本とか、都市と地方とか、いろいろ分けることができる。先日、徳島県の吉野川の可動堰の件で、現地を視察していろいろ感ずるところがあった。たとえば公共の利益を徳島市だけで考えれば、直接選挙で(住民投票で)ノーということになっている。しかし、上流の住民との関連で言えば、上流の人々はいわゆる築堤もつくれない状態におかれている。なぜつくれないかというと、築堤をつくってしまうと大水がでたときには、下流で大氾濫が起きてしまう。したがって、遊水池と称して畑のなかに水が流れてくるように仕組まれている。上流の人々は長年の歴史的な経緯から、それをやむを得ないと考えてきた。上流の人々は公共の利益の観点から、みんなの安全を考えて我慢してきた。しかし、徳島市の方では直接選挙で、住民投票でノーと言う結論を出したのだから、絶対だという主張をしているわけである。  私は天皇制のことも、日本の文化は勝ち負けはつくらないという良い伝統、ぎりぎりのところまで議論したならばお上ご一任と、この方式が良く使われれば伝統的なひとつの良い方式だと思う。やはり個の確立が大前提でなければならない。権利と義務の関係も、権利が確立されているかというと、まだまだそうでもないと認識している。報道の問題を考えていて感じたことだが、プライバシーを守る権利、知る権利なども確立されていない。他にも確立されなければならない権利はたくさんある。権利と義務のバランスの問題は全体を見ながらの突っ込んだ議論が必要だと思う。  特に憲法は国民の基本憲章だから、二五年には一回は必ず見直すといったルールが必要だ。さらに国会の発議権は過半数にしておけば、二五年くらいのスパンで、次の四半世紀の国民の基本憲章を定めていくと言うやり方ならば、かなりのことが具体的に規定する必要があるのではないかと思う。これは過半数では簡単に決められない。もっと重みのあるものだからといった認識をしている。天皇制ももっとしっかり議論すべきであって、天皇陛下の権利はどう考えればいいか。なぜ天皇制が残っていこうとしているのか、天皇制を残すのは日本の文化であろう。公共の利益という言葉に替わる世界に通用する言葉が必要なように思う。
大野功統:権利の裏に義務があることは明らかである。しかし、我々が議論しているのは、権利の行使については制限があるということである。私は権利はいくら主張してもかまわないと考える。権利を主張することは自由であり、それを制限することを国家権力につなげるとすれば、それは昔の亡霊に惑わされていると言わざるをえない。それは司法権の濫用、警察権の濫用と言う別の側面から考えてみれば明らかである。しかし、権利の行使については制限があるべきである。自分と他人の利益に違いがある場合には制限されるのが当然である。これを自覚しなければならない。仏教の言葉で自利利他、つまり、自分の利益は他人の利益という釈迦の言葉があるが、まさにそういう場合には制限されるのが当然である。今の憲法にもそう書いてあるが、裁判の例ではあまり有効に解釈されてない。これをはっきりさせるべきである。お釈迦さんから利益という言葉であるので、公共の利益という言い方に大賛成である。宗教活動については、政治は宗教を支配してはいけないし、宗教は政治を支配してはいけないという現憲法の規定のままでいい。
遠藤武彦:人権があれば公権があって当然であると考えている。これは対立するものではなく、これまで公権をあまり意識しない、考えないできたことが問題である。人権に対比するものではなく、相対的なものだ。人権があれば公権もある。ところが、公権という考え方が上下の関係とか優先とか、主従で捉えられているが、これは相対的なものである。公権があるがゆえに人権が守られる。人権が守られるのは公権があるからであるという意識が欠けていたのではないかと思う。
小杉隆:ちょっとこれまでの議論を確認しておきたい。権利と義務の問題については多様な意見が出された。環境権については環境保全義務を明記することは当然のことであり、議論も出なかったが?。
原田義昭:環境権は言葉として嫌いだ。何故かと言うともっぱら開発とか公共の利益を反対する側がよく利用する傾向があるので、好きではない。環境を保全する義務はきちっと明記すべきであると思うが、基本的人権の流れの中で環境権という言葉はなるべく使わないほうがいいのではないかと思う。私は今の憲法のなかで基本的人権については充分書いてあるし、実践においても必要以上にそれが守られていると言う意味で、新しい権利と自由をこれ以上付加する必要はない。むしろ内在する公的な利益、公共の利益、公共の福祉なりを、充分研究して国民が受け入れやすいアプローチをすべきである。
自見庄三郎:私が新たに会長に就任した環境基本問題調査会では二つの大きなテーマが提起されている。一つは憲法と環境がテーマになっている。もう一つは環境税が当面の問題だが、基本問題調査会でも議論が始まっていることを披露しておきたい。
小杉隆:整理の続きだが、プライバシーを守る権利、これは異論のないところだと思うし、同時にプライバシーを尊重する義務もあるべきだと言う点についてもご理解いただけるものと思う。知る権利、情報公開については意見は?
木村義雄:プライバシーと情報公開については行きすぎてはいけない。外国では個人の情報もしっかり守っている。同時に国家の情報もしっかり守っている。一方的に権利ばかりを拡大するのは国賊的誤りである。
保岡興治:名誉毀損の損害賠償額が安過ぎる。これについては法務省でも議論が始まっている。
山内俊夫:宗教活動は自由にしていい。宗教法人に問題がある。宗教法人も福祉法人も基本的に性善説に基づいて法律は作られている。ところが、それを悪用しているという近年の動きがある。新興宗教がわずか一年や二年の布教活動で、一定要件を満たせば宗教法人になれるのはおかしいと思う。一人のカリスマが起こした思想が定着するには何十年もかかる。法人格を認める前にやはり二代、三代、四代と代が変わっても、三〇年から七〇年かけて、その資格があるかどうか見極めるべきではないか。
奥谷通:宗教法人をどう運用するか。新たな憲法でも現行憲法以上のことが書けないとしたら、結局、どう運用されているかということはその時の政治勢力、どういった分野と結びつくのが選挙に勝てて政権をとれるのかという話に直接結びついてくる。私自身にもジレンマがあるが、いま以上に書けないような気がするし、書いたとしても守られない、あるいは拡大解釈されたりすれば、全く意味をなさなくなってしまう。
木村義雄:政治家に問題がある。前までは問題があると言っていた人が一八〇度変節するのが問題である。
山崎拓:現行憲法の二〇条は変えないということでいいのか。
木村義雄:国家の規範たるべき政治家、しかも責任政党の政治家が、あのように一八〇度コロコロ変えたのが信頼を失わせた最大の由縁である。それを総括しないで、どう書くかを議論しても始まらない。総括を待って、真剣に議論すべきではないか。政教分離をはっきりさせる議員連盟をつくったが、既に自主解散して残った会費が三〇万円ほども返ってきた。その議連をつくった張本人たちがコロコロ自分の主張を変えているのだから、その総括をすべきだ。
小杉隆:公共事業遂行のための財産権の制約を強化するかどうかについてはどうか。
武部勤:当然強化されるということだ。公共の利益との関係で明らか。
木村義雄:成田空港の問題は、ここに空港をつくるということになったので、自分の土地を高く買ってくれるだろう思っていたら、少し値を釣り上げようとしたら札束を持ってくるかと思ったら、機動隊がヘルメットをかぶって来た、というところに最大の問題点がある。運用の問題がある。運用の間違いが前提になって、財産権を制約するとか強化するとか、成田の空港問題をもってどうこうするのはおかしいと思えてならない。なにが調整、バランスをとるものかを考えると、やはり議会であると思う。歴史的にも、自見さんが議会の由来に触れていたが、国王が勝手に国民や領民に重税を課したり、労役を課したり、中には初夜権を行使といった無茶苦茶なことをやっていた。これを阻止するためにできたのが議会であるから、これがバランスを図る重大な責任を負うべきである。これが憲法のもっとも大事なことの一つだと思う。
田中和徳:議会の多数決を尊重せよ。
佐藤剛男:公共の福祉がおかしい。この機会に公共の利益に直すべきだと思う。ただし、成田の話は憲法問題ではないと思うし、その下の法律の具体的執行の問題であろうと思うので、憲法論とは分けて議論すべきではないか。
林幹雄:成田問題が出たので一言申し上げざるをえない。公共的事業の位置を明確にし、国民に理解してもらうかが必要であり、その意味で議会が重要だと思う。しかし、成田に関しては、国も県も成田市も全ての議会で建設推進の決議をしても、無視されている。民主主義というものはたったの三人でも民主主義を遂行していると言う現実がある。いま三人である。公共的事業あるいは公共なるものをきちっと位置づけることが大事であると思う。
小杉隆:財産権も基本的には認めつつ、公共のためのその辺の兼ね合いもしっかり守っていくという先程の権利と義務の議論と相通ずるものがあると思う。次に教育権については何か議論があるか。ないようなので、国を守る義務について。
山崎拓:これは外国人参政権問題と非常に深い関係がある。彼ら在日韓国人の母国は徴兵制である。ところが、日本に永住している場合には徴兵の義務を免れている。投票権を主張するのであれば、国民としての義務を一方において守る、あるいは国に対する忠誠や国家に対する義務を守るということを基本として国民にのみ与えられている参政権に参加すべきであると考えている。国を守る義務は明記したほうがいい。ただし、徴兵制はとらない。
渡海紀三朗:会長の意見で基本的にかまわないとは思うが、いざという場合にも徴兵制をとることは絶対にないのだという前提で、国を守る義務を憲法に書くのは論理矛盾にならないのだろうか。
山崎拓:有事立法をやろうとする場合には、国を守る義務を憲法に書いてあったほうが、有事立法の違法性を問われないで済むと思う。公共的事業遂行のための財産権の制約の問題と、有事立法の問題を分けて議論すれば判るはずである。有事立法をやるためには公共の利益だけではできない。国を守る義務を規定しておくことは重要になる。有事立法のためには国を守る義務を規定しておくべきである。
木村義雄:そもそもその前提として日本の国の独立の問題がある。今の日本の状態、今の憲法の状態は真の独立かということに多くの人々は首を傾げている。いまのままなら、独立と引き換えにアメリカとアメリカ軍におもねることによって、安全が保障されているというシステムになっている。そうではない。みずからの国は自らの国民で守る、独立国家なのだということが前提でなければならない。そうであれば、当然自分の国を守る気概が生まれ、おのずから徴兵制はなくても、いざという時には志願を募れると思う。徴兵制を敷かなくても、真の独立を確保していれば、いざという時に国を守るために立ち上がる青年は出てくると信じる。その前提に、日本の国が独立していなければならない。私は今の状態は真の独立ではないと思う。沖縄の実態を聞いていて感じたことだが、八〇〇〇億円ものホストネーションサポートの費用を払っている。アメリカは大幅な黒字でどこに使うか迷っている。一方では赤字に苦しんでいる日本政府が八〇〇〇億円以上のその他の金も払っている。こんな馬鹿げた話はないのであって、安保条約は本当は不平等条約なのではないかという気がする。
山崎拓:安保条約は破棄できるので一概に決めつけられない。破棄できない条約なら不平等であり問題だが、そうではない。
武部勤:国を護る義務を書いて、徴兵制をとらないということを書く必要はない。場合によっては徴兵を伴うのが当然であり、徴兵制をとるかとらないかは政策判断でいいのではないか。矛盾はないと思う。狭義の義務と広義の義務の解釈はいろいろある。
山崎拓:政策として徴兵をとらないことを主張すべきである。
佐藤剛男:徴兵制問題は、九条との関係で徴兵を強制されるかされないかというところが重要だと思う。私は憲法には、強制されない、徴兵制はとらないということを書くべきだ。でないと、論理矛盾が起きる。公務員の憲法順守義務は当然だが、九条とのからみで、国を守る義務を書くと矛盾を生じるように思う。
小杉隆:この問題はいま決着は難しい。引き続き議論を継続するということにしたい。
木村義雄:書いてないことはしなくていいということになる。
山崎拓:国を守る義務は公務員しか書いてない。いっそのこと公務員を消すか。
小杉隆:国民の憲法擁護尊重義務を書くかという設問をしたのは、現行憲法には公務員の憲法順守義務しか書いていない。本来、憲法は国民全てが守るという合意の下にできているということだと思うが?。
渡辺具能:公務員が権力を持っているから書く理由があった。
小杉隆:緊急事態において、国民の権利の制限を認めるか否かについては、認めるということでいいか。
木村義雄:制限の範囲を明確にせよ。
渡海紀三朗:私権の制限はありうるという前提で法整備をする必要があるのではないか。こういう場合は国民の権利の制限を認めるという基本を憲法に書こうという設問の趣旨だと考える。現実には今でも災害のときなどには権利の制限は行なわれているわけで、法律できっちり決められたことに基づいて、たとえば知事が要請しなければ自衛隊が緊急の救助作業であっても出動できないということになっている。阪神淡路大震災のときには伊丹に一〇〇人かなんかが飛んできたけれど知事の要請がないあいだは動けない。そういう緊急事態に対応する法整備をするためには、憲法に私権の制限を書いておかなければならないという考え方だと思う。私は賛成だ。
保岡興治:木村さんが懸念していることがおこらないように、やみくもになんでもできるというようなことにならないように、法律をもってきちっと制限すると書いておくということだ。
原田義昭:しかし、緊急避難の概念は列挙しにくいと思う。緊急避難や正当防衛の場合には私権の制限があり得るということを、原則として書いておく。実際の場合にはその現場でその時点で、その手段でしか対処できない。考え方としては、完全に私権が停止される戒厳令があり得るということだ。具体的に事例を列挙しておくことがいいと思うが、現実には技術的に難しい。要件はできるだけ狭めておくが、具体の列挙はできないと思う。
木村義雄:憲法を停止するような戒厳令が日本でありうるか。明治憲法では戒厳令の規定があるが、現行憲法にはないので、憲法に則る戒厳令はありえないのではないか。
保岡興治:濫用されないよう法律で書くべきである。
大野功統:緊急事態のときに法律がなければ何もできないかというと疑問である。書かなくても良いように思う。どこまでができるか、書かなければできないのか。
保岡興治:私権の制限を行なう期間とか、いつ解除するかなどの規定があるべきであり、あいまいではいけない。
大野功統:憲法で書かなければならない問題か。
原田義昭:この問題は、いま我々が九条の下で自衛隊を持っているという現実と同じことだと思う。自衛の権利は天賦のものということで、自然権だとして解釈してきたが、これではやはりおかしいということで、九条を正面から議論してはっきり自衛隊が必要なんだということに見直そうとしている。緊急避難とか正当防衛は法律以上の、天から授かった自然の権利である。したがって憲法や法律に書いても書かなくても、実行は許される話であろうと思う。戒厳令については何らかの位置づけを与えておいたほうがいいかもしれない。
小杉隆:この議論は引き続き別の機会に煮詰めることにして、投票義務についてはこれまであまり議論されたことはないと思うが、どうか。
渡海紀三朗:憲法に投票を義務として書くというのには反対だ。むしろたとえばアメリカがとっているような多少は努力しないと投票権が与えられない登録制という問題と捉えたほうがいいのではないか。投票率が上がるか上がらないかというのは、時の政治情況があって投票に行かない国民の意思を、我々は大事にしなければならない。政治がおもしろくなれば投票率は上がるのであって、義務化は良くない。世界の例はあまり詳しくないが、オーストラリアは罰金、ラテン系の国で景品という例があると聞いているが、義務として憲法として書くべき種類の問題ではないと思う。
林幹雄:投票の義務は必要なように思う。政治不信であれば、白票が富士山より高く積み上がるというのが表現されるべきであって、投票に行きもしないで簡単に政治不信と言われたくない。
金子恭之:今、一票の格差が憲法問題になっているが、私は少し議論が公平じゃないような気がする。地方の投票率は都会に比べて非常に高い。これは、投票の義務を果たしているわけで、投票率の低い都会の人たちは投票の義務を果たしていないと言える。この状態をそのままにして、人口比で一票の格差を論じるのは不公平。例えば、過去三回の選挙の投票率と人口を掛け算して算出した数字で、一票の格差を比べれば、公平が保たれると思う。
小杉隆:この問題は保留とする。この項の最後の外国人参政権問題はこれまでもさんざん議論してきているので今回は取り上げない。

5
●一院制か二院制か・機能分担、選出方法
●政党条項を設けるか
●憲法裁判所
●特別裁判所を設置するか・特許裁判所、軍事法廷など
●首相公選制を導入するか
●首相の権限強化を図るか・非常事態における権限規定
● 国民投票制度を設けるか


統治機構
第四章(国会)
第五章(内閣)
第六章(司法)


原田義昭:現在の二院制で良いが、衆参が同じような選挙制度であるべきではない。関連して、衆議院の解散制度が日本の政治をだめにしていると感じている。三年なり四年なりのタームはきちっと政策の勉強をし、政治に邁進すべきだと思うが、選挙後一年もすれば次の選挙の準備に追われてできない現状がある。また、内閣が解散・総選挙をいつの時点で行なうか、戦術戦略、政局だけで政治家を右往左往させる状況は、自分自身がまだ選挙に自信がないということもあるが、日本の政治のために良くない。じっくり政策に取り組める制度とすべきではないか。
林幹雄:私は結論から言えば一院制がいいと考えている。参議院のあり方も衆議院のあり方、選出方法などを議論していくと、今の状況であれば同じ政党制で衆議院も参議院も変わりなくなってきた。余計な手続きばかりになった。機能を明確にして、衆議院参議院のどちらを残すかということではなく、一院制とすべきである。
田中和徳:首相公選制との関連で考えてみたい。首相公選制が実施されるようになれば、一院制でいいと思う。国民の意思を首相公選と議員の選挙との両面から反映させ、いろいろ議論する姿がよいのではないか。
小杉隆:二院制はチェック機構を働かせるしくみではあるが、膨大な審議のエネルギーが必要になるという指摘がある。OECD二十一ヶ国の内訳を見ると、一院制をとっている国は比較的小国が多く、デンマーク、フィンランド、ルクセンブルク、ニュージーランド、スウェーデン、二院制はアメリカ、イギリス、ノルウェー、ベルギー、スイス、オーストラリア、アイルランド、アイスランド、イタリア、ドイツ、フランス、スペイン、カナダ、オランダ、日本となっている。
佐藤剛男:さきほど、衆議院で法律が通っても参議院で否決され、衆議院に戻ってきた場合に三分の二の賛成が必要というところが問題なのではないか。これは直しておかないと、政治の停滞が進むのではないか。参議院で否決されて衆議院に戻すときにやさしくしておく、衆議院優先の制度を法律についてもつくっておけば、今みたいなへんてこなことにならない。
木村義雄:二院制は基本的に残すべきと考える。議会のチェック機能が行政権に対してしっかりと権能が発揮させるためには、やはり二院制のほうがいっそう行政権や司法権に対して不当な議会への横槍に有効な機能を発揮するのではないかと思う。首相公選制には反対である。これは衆愚政治を招く危険が大きいと言わざるをえない。首相の権限強化についても、これはまさに首相の資質に関ってくるものであって、下手に強化するとサメの脳味噌みたいな首相の時に権限が強化されているとたいへんなことになるので反対だ。国民投票制度もこれは充分に慎重になるべきと考える。特別裁判所設置も慎重であるべきだが、憲法裁判所は最高裁との兼ね合いをどうするかという問題が残るが、両論あってしかるべきであり、よくよく議論したうえで必要があれば置けばよい。政党条項についても必要があれば置けばよいと思う。
武部勤:私も首相公選は反対である。理由はご想像いただけると思うが、日本の国は間接民主主義が文化として根づいており、徳島県の可動堰の問題で住民投票を目の当たりにしたが、あのような馬鹿げたことが起こってくる。人気取り政治が拡大していく危険があり、断固やめるべきと考える。しかし、選挙制度と二院制をどうするかはもう少し真剣に考え、改めるべきだと思う。国会だけでなく地方分権を考えたとき、地方制度、地方の議会制度、あるいは道州制との関係で民主主義基盤の確立を考えていくべきと考える。要は全体と個との関係の整理に帰結すると思う。
遠藤武彦:特別裁判所の中でも、特に特許裁判所の拡充が求められる。ある意味で二十一世紀は特許の時代と言える。特許戦争に後れを取れば、科学技術や産業経済のみならず国家の興廃にも関わる。ここ数年、日本を代表する大企業がアメリカなどから特許侵害で訴えられ、莫大な金額を支払わされている。また東南アジアなどで日本製品の模倣、意匠の盗用が頻繁に行なわれている。しかし日本の特許裁判の脆弱さのため、まったく無視されている。ヒトゲノムの解読、また種子などの分野で、我が国は大きく水をあけられている。我が国の将来、国際社会における地位の向上のためにも、特許裁判所の拡充は緊急の課題だ。
大野功統:首相公選制はどういう前提で議論されているのか。つまり、三権を完全分離するという意味で提案されているのか。それはひとつの行き方、やり方であって、それならば良いと思うが、そこがあいまいなままであって、三権分立がきちっと守られないと言う状態で問題提起されているのであれば筋が通らない。首相公選にするのであれば国家元首の問題をどう考えるかが残ってくる。これはまた解決すればよいことだが、問題提起が不明確である。すなわち議員が大臣になることがありえないということであればいいが、単に総理だけを公選にするというのであればおかしい。
木村義雄:細川護煕首相はまったく力が発揮できなかった。
山崎拓:彼は公選ではない。
木村義雄:公選ではないけれど、ある意味で八党の連立で公選制みたいな形で出てきたイメージである。
渡海紀三朗:首相公選制には積極的ではない。もし公選制をやるとした場合に、立候補のハードルを設けることになるはずである。たとえば国会議員何名の推薦が要るとかといったハードルをかなり高くする必要がある。そうでないと、現状では単なる人気投票になってしまう可能性が高い。軍事法廷をつくるかどうかは行き過ぎだと思うし、特許裁判所については憲法に書かなくてもできる話だと思う。また、憲法に書かなくてもできると思うが、行政裁判所の必要を強く感じている。情報公開法をつくったときに議論した経験があるが、行政と司法が対立した場合にはアメリカでは裁判所の方が強いということになっている。日本の場合には最終的には最高裁が裁くことになろうが、最高裁は司法の頂点であって、三権分立であるならば、三権の構造が対立した場合に、司法と行政の対立を司法が裁くのはおかしい。行政裁判所の設置についてもぜひ検討項目に追加してもらいたい。
亀井善之:最高裁判所の裁判官の国民審査は不必要ではないか。これも検討してほしい。 木村義雄:国民審査は別の形でちゃんとやるべき。
田中和徳:また議論を重ねてもらいたいが、首相公選制はぜひやるべきだと思う。




6
●慈善事業、教育への助成を制限する規定を削除するか
●健全財政の原則を書くか
●国と地方の役割分担、基本的関係を憲法で明確化するか
●首長の多選禁止を書くか
●道州制を念頭に地方自治体の種類、首長選任の規定を置くか
● 地域の問題に関する住民投票をどう位置付けるか


財政・地方自治
第七章(財政)
第八章(地方自治)


木村義雄:私学助成は憲法違反なので、解釈改憲などあいまいにやっているが、これははっきり制限規定は削除すべきである。道州制については、県が市町村に合併をどんどん押しつけているが、市町村に合併を押しつけておいて自分のところは今までのままだというのはおかしい。やはり道州制を念頭に置いて地方自治のあり方を真剣に検討することが大切である。
大野功統:憲法の条文にどこまで書くかどうかは別として、現行憲法には首長は公選としか具体的に書いてない。このことが日本の地方分権をあいまいなものにしており、反面においては地方の行政改革のインセンティブをまったく失わせしめている。地方は今の制度の下では、県知事でも市長でも、国に対して手の出し方がうまい人が首長になっているというだけの話である。これは非常に問題である。  そこで、国と地方の仕事をきっちり仕分ける必要がある。その場合、何が国の仕事かは議論を要するが、教育、福祉、ナショナルミニマムなどは国がやるべきである。地方の独自性、地方の特色を出す仕事は地方が自らの財源で、財源も与えるべきだと思うが、独自の財源でやる。我々は消費税を一%上げようとすると選挙でごろごろ討ち死にをするが、地方の議員も地方の首長もそういう痛みが判っていない。だから行政改革のインセンティブがない。もし、地方で県の税金を上げようということになれば、やはり県知事は県の組織を効率化していかなければならない。これから二十一世紀に行政を改革していくためには仕事と財源をきちっと国と地方と分ける。いま、六割国でとって、四割地方で、逆転して六割以上は地方で使っている。交付金と補助金があるからそういうことになる。交付金を残しても補助金はやめるということでないと、二十一世紀はとうてい乗り切れない。  どこまで書くかは議論していくべきだが、基本的な考え方は、それに一枚加わってIT時代である。IT時代は県庁の仕事がかなりコンパクトになってこれるので、しかも合併がどんどん進んでいく。介護保険を中心として合併が進むべき時代であるから、これも念頭に置いて、我々はものすごくこれからの課題だから、場を改めてもう一度議論して、この問題をきちっと定義、提案していきたい。
遠藤武彦:私は二年間、議運と国対で実質的に座長として政府委員廃止、党首討論、来年一月から副大臣制度の設置をやってきたが、残された問題として、首長の多選問題がある。日本の場合はこれは問題だ。地方自治の侵害という指摘があるかもしれないが、地方議会はオール与党になっている。どうしても必然的に首長の権限が非常に大きくそうなってしまう。首長は長ければ必ず淀む。どんなに個人として立派であり、優れていても組織として淀むのはどうしようもない。組織そのものが肥大化し、金属疲労を起こす。やはり考えるべき。  首長と議員はちがう。我々議員はたった一人のために死ぬことができる。あなたにはここまでやってもらった。よし命をかけてあなたのためにやるということができる。しかし、首長はあまねく万民のためである。そこに大きな違いがある。それがいつまでも長く、五選六選は問題がある。どこまでにするかは議論半ばだったが、やらなければならない問題として残った。たとえば首長は、直轄ダムの工事に起工式などに市長が大きな顔して出てくるのは、本末転倒でありおかしい。政治の構造改革のためにも首長の多選の制限はやるべきだと考える。
山内俊夫:私は道州制を実現する会に参加して事務局長をやっていて、プログラムを作成中である。その議論の中で道州制と憲法論議はある程度並行する必要があると言う意見がある。というのは憲法をやっていくときに道州制が視野に入っていれば、当然そのような憲法に変えざるをえないということであり、PRになるが、近々に自民党議員全員に案内するが、よろしく。
渡辺具能:健全財政の原則は書くべきではないかと思う。どこまで書くかは難しいが、原則は書くべきだと思う。子孫に赤字を遺さないという思想を書くべき。権力者は権力を維持するために、ばらまき予算に走りやすい。だから、精神論でいいから、どこまで役に立つかは判らないが、書くべきである。  また、時代が変わっているのに、今の憲法で一番プアーなのは地方と国の関係、地方自治である。地方自治のところを強化拡充することが新しい憲法のセールスポイントになるのではないか。地方分権推進委員会などで議論しているが、地方と国の役割分担の基本的な精神を明確に書くべきである。地域の問題に関する住民投票は問題を惹起しているが、やり方をフェアにやれるように考えれば許容が可能だ。今の状態では反対派しか投票に行かないのが実態である。フェアに行なわれるような規定を置くことによって活用していくことを考えることもできると思う。
武部勤:健全財政の原則を書くかどうかということについては、時の政権がしっかりしていれば政策でできるので、そこまで憲法に書く必要があるかどうかは疑問である。地方分権の拡大は大事だが、受け皿は市町村では無理だと思う。やはり道州制の導入が良い。具体的に現在の衆議院のブロック制の単位で良いと思う。国の統治機構もこの単位に合わせて出先機関を一本にすべきである。  住民投票は極めて危険であるが、完全に否定するわけにもいかないので審議会程度の権限にとどめる必要があろう。  国と地方の役割分担を明確にする必要はあるし、首長の多選禁止も当然その過程で必要となる。北海道は革新知事になったので、開発庁をつくらざるを得なかった。ところが逆転して知事のほうが強くなってしまって、そのためにずいぶん苦労している。公平公正であればよいが、革新知事でないのであれば開発庁と北海道は一本化したほうが効率的だと考える。大野さんの言うとおり、憲法改正の目玉になる課題であるから議論を深めるべきである。
大野功統:多選があれば淀みが出るのは当たり前のことだが、多選問題は、行政評価制度をどう考えるかをあわせて考えないといけない。行政評価がきちっとできる制度をつくれれば多選禁止の必要はないが、行政評価制度がしっかりできないのであれば多選禁止をやるべきであると考える。
渡海紀三朗:憲法については近未来でまとめる、というのではなく、議論を重ねたうえで山崎会長が提案する形をとるほうが良いと思う。 山崎拓:本日の皆さんの議論を整理して、小杉さんの専門家チームで再度議論することにしたい。次回は今日の議論に基づく論点整理をして再度議論をやりたい。このような議論を積み重ねた成果を五月三日に世に問うとすれば、少なくとも二月にはまとめなければならない。その作業を小杉委員長のもとで熱心に強力に進めていくので、どうかご協力をお願いしたい。