「俺はもう無理だが、山崎には総理・総裁になってもらいたい。必ずできる」。  平成七年八月、沖縄県那覇市のホテル。元副総理・渡辺美智雄は体調を崩し、車椅子で後援会の会合に登場した。手短に挨拶を済ませ、同席の山崎拓らに後を任せて早々と会場を引き揚げる際、周囲にぽつりと漏らした。一ヶ月後、渡辺はこの世を去った。

 あれから五年。山崎拓は旧渡辺派から独立し、山崎派(近未来政治研究会)を立ち上げ、派閥の領袖となっている。十一年九月には、戦う前から苦戦が予想された自民党総裁選挙にも敢えて立候補し、自らの政策を堂々と訴えた。平成三年の「海部おろし」で、戦国時代の下克上の如く躍り出た「YKK」も、いまや自民党の顔となっている。

「加藤(紘一・元幹事長)は東大出の外務官僚で頭がいい。小泉(純一郎・元厚相)は歯に衣着せぬ発言で人気がある。しかし、俺だってあの二人にないものを持っている。それは二世ではない、叩き上げだということだ」。酒が入ればいつもこう口にする山崎は、YKKの役割分担を自覚している。まずは、加藤総理・総裁の実現が第一であり、そのために自分は裏で汗をかくことに徹するということだ。派閥の領袖同士でありながら、加藤・山崎の盟友関係は、「自民党戦国史」時代の田中角栄・大平正芳のそれよりも強固だ。山崎派内では、「加藤総理が実現すれば、山崎を幹事長に」という待望論があるが、「加藤が長期政権を望むなら、官房長官は山崎しかいない」といった声も出るほどだ。

 今年十月、山崎は二つ年上の実姉・美智子を不慮の交通事故で亡くした。六五歳だった。山崎はサラリーマン時代の二五歳の時、総理府の「日本青年海外派遣事業」に参加。欧州・東南アジア十三ヶ国を三ヶ月かけて視察した。美智子は拓本人に内緒で海外派遣事業に応募し、会社の休みを無理矢理取らせて参加させた張本人だ。「各国を見て回って、日本が世界の中でちっぽけな存在であることを実感した。いつか、世界に貢献できる日本にしなければ?と誓った」。山崎の政治家としての原点が、この体験にある。

 「親父は七八歳で亡くなった。俺の人生もそれくらいだろう。二〇一〇年に七四歳で引退する」そう公言する山崎は、姉の死を目の当たりにして、いま無情で有限な人生のはかなさを強く感じている。山崎は昨年、「二〇一〇年日本実現」と題した政権構想を発表した。自らが政治に責任を持てる間に、実現させたい政策として打ち出したもので、その中心に据えたのが「憲法改正」だ。来年五月三日の憲法記念日には、「憲法改正試案」を打ち出す準備を進めている。  「山崎政権を必ず実現し、政治家の集大成として憲法改正を目指す」。  政治の師だった渡辺。政治家を志すきっかけを作った姉・美智子。二人が天国で見守る中、山崎はいま自らの帆先を「頂点」に向けて疾走し始めた。