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朝日新聞社「一冊の本」 ―落日燃ゆの気概を秘めて―
政治家の本棚   
  
インタビュー:朝日新聞編集委員 早野 透氏   
  
「落日燃ゆ」の気概を秘めて   山崎 拓   
  
  
  
早野氏 お生まれは中国の大連ですね。
山崎拓 父が満鉄の調査部に勤めていて、大連の支局にいたのです。その後、上海に行きました。父の東大経済学部でのゼミが有沢広巳先生で、その一門が満鉄調査部に行ったんですね。上海は主要拠点でした。
  
早野氏 じゃ、小学校は?
山崎拓 日本に帰って、福岡の古子烏(福岡市中央区の地名:ふるこがらす)で小学校に。昭和18年です。中学に入ると、すぐ近くに引越しました。親父がわりあい教育熱心で、学校のそばに住むように心がけていました。
  
早野氏 (孟母三遷ならぬ)孟父三遷みたいな。
山崎拓 親父は子供のとき「理屈」というあだ名だったらしくて、学問が非常に好きでした。満州から引き揚げてから炭鉱経営に変わった。まあ、炭鉱の経営の跡継ぎをするために帰ってきたといってもいいんですけど。父方の祖父(山崎和三郎)は飯塚炭鉱、母方の祖父(山口慶八)は佐賀県で炭鉱を幾つもやっておりまして、その一番大きな炭鉱は小城炭鉱です。
  
早野氏 拓さん、後にエネルギー問題に携わっていったのも血筋ですね。
山崎拓 うちの炭鉱の後始末をした関係もあって、エネルギー問題はかなり詳しかったですから。炭鉱は全部閉山しました。小城炭鉱は、石炭鉱業合理化事業団の買い上げ第1号だったんです。そういう感覚は早かったんです。それで処理ができた。
  
早野氏 父方の祖父が飯塚ということだと、あの辺の川筋気質というのを受け継いでいるのかしら。
山崎拓 祖父は山崎和三郎といって、玄洋社の幹部だった。石炭は玄洋社の資金源なんですね。和三郎は来島恒喜よりは後なんですけど、同時代に活躍したんです。来島は大隈重信を襲い、和三郎は早稲田の総長、文部大臣もした高田早苗を襲ったんですね。
  
早野氏 お名前の「拓」も由来がありそうな。
山崎拓 ええ。母方の祖父が、福岡県の大牟田の近く、開村で着炭したわけです。ボーリングで炭層に突き当たった。ちょうどその日に大連で私が生まれて、「開」とつけろと私の親父に電報を打ってきた。山崎開となるところですけど、親父が開拓 の拓をとった。石炭と満州開拓で合成された名前です。(ゆえに、本名はやまさきひらく)
  
早野氏 福岡教育大付属中、修猷館、早稲田と進んで、本は読みましたか?
山崎拓 中学から大学を出るまで10年間、柔道三昧の生活だったんです。でも大学時代は本をよく読みました。
  
早野氏 修猷館は著名な政治家が出ていますでしょう。緒方竹虎・・・・。
山崎拓 中野正剛、広田弘毅と。
  
早野氏 一種独特の空気を持っている人たちですが、在学当時はそういうことは意識しましたか。
山崎拓 それは相当に。同窓会とか学校の先生も、そういう先輩のことを顕彰する空気は強かったですから。しょっちゅう聞かされた。「修猷館物語」という本が出たくらいでね。
  
早野氏 でも県立高校でしょう。
山崎拓 昔、藩校でしたからね。200年以上の歴史がある。藩校の誇りを非常に強く打ち出していましたね。朝日新聞も多いんですよ。緒方、中野がそうだし、笠信太郎もそうです。私のかわりに伊藤正孝が行きました。
  
早野氏 伊藤正孝さん(朝日新聞記者、故人)とはどんな間柄ですか。
山崎拓 中学、高校、一緒ですね。中学で同じ文芸部で僕が部長で、彼が副部長だった。修猷館のときは伊藤君が部長になって、僕は柔道一本やり。大学は、彼は小説家志望で文学部に入り、一期遅れて商学部に転入しました。ブリヂストンに私が就職したので、彼もブリヂストンに。しかし彼は朝日新聞の試験を受け直したんです。
  
早野氏 文芸部では何を。
山崎拓 詩とか短歌とか読後感想とか、文集を作ったり。僕は小学校の頃からわりあい詩心がありまして。小学校のとき担任の田中正太先生といって、非常に情熱的に教えられた。終戦後で、みんなの気持ちがざらざらしたときだったので、文学教育が行われたんですね。西日本新聞が詩を募集して、私も入選したりしましたね。
  
早野氏 高校、大学では。
山崎拓 夏目漱石とかトルストイですね。漱石は「坊っちゃん」「我輩は猫である」から始まって、彼の作品で読まなかったものはほとんどないですね。人生をかみしめて生きていくという感じのものでしたね。それから自我の問題。トルストイは大学に入ってからだったな。
  
早野氏 早稲田の暮らしはどんなです。
山崎拓 親父は「1年浪人して東大に行け」というようなことを勧めておりましたが、私は柔道に対する熱情みたいなものが非常にあって、1年浪人すると体がなまって柔道が弱くなる。そこで早稲田に行ったんです。
  
早野氏 そのころはもう何段とかになっていたわけですか。
山崎拓 高校のときに初段を取って、大学1年生の5月に2段に、10月に3段になりました。
  
早野氏 みるみる強くなったんだな。
山崎拓 いや、もともと強かったわけですよ。九州はレベルが高いのです。福岡で優勝する高校が大体全国大会で優勝していました。福岡で我々は常にベスト3に入っていた。東京に来れば、そのレベル調整が行われて、簡単に段が上がっちゃったんです。
  
早野氏 柔道というのは、拓さんの人生にとって何なんです?どこがそんなに気に入っちゃったんです。
山崎拓 やっぱり僕、坊っちゃん育ちでしたからね、精神面の弱点をカバーする意味でいいと思ったんでしょうね。私の祖父は全国長者番付でナンバー2になったこともありました。炭鉱王でしたからね。私が住んでいた古小烏の家は、敷地が6千坪ありましたものね。母屋の建坪が3百坪、ほかにも点々と家屋があった。
  
早野氏 すごかったんだな。
山崎拓 今、母屋が九州電力のクラブになっています。接待用になっていて、料亭を使うよりもはるかに喜ばれる。時々私も利用しているんです。酔っ払うと、懐かしさがこみ上げてくる。ああ、俺はここに寝とったなと。寝とったところで宴会をやってますからね。今の山崎派の同志を10人ばかり連れて行ったことがあるんです。私に対する彼らの見方が変わった。いま議員は2世、3世ばっかりでしょう。私は数少ない党人派。裸一貫のたたき上げのはずなのに、こんなところで育ったかと。
  
早野氏 大学での読書は。
山崎拓 どういう動機だったか、本を毎年百冊読むという目標を立てまして、4年間、読書三昧。まあ、授業が物足りないことはあったと思うんです。果たしてどれだけの知識を持って社会に出て行けるか不安だったものですから、読書でカバーするという方針を持ちましてね。だけど、百冊はなかなか・・・・。
  
早野氏 3日に1冊ですからね。
山崎拓 量をこなすために質を軽んずるところがあって、岩波新書ばっかり読んどった、片っ端から。あれ、早いんだ。2百ページで。
  
早野氏 岩波新書は、質悪くないでしょう。あれぐらいを知っていれば、世の中、十分ですね。
山崎拓 だから国会答弁なんかは比較的苦労しないですよ。常識論で対応できるから。そのころ一世を風靡したのが経済では都留重人だったな。有沢広巳、大内兵衛もおった。心理学では宮城音弥ね。興味深く読みました。大学に神沢惣一郎という哲学の先生がいまして、その講義を4年間聞きましたよ、全く同じ内容の講義を。前の席に座って。
  
早野氏 それはまたなぜ。
山崎拓 その先生、クリスチャンだったものですから、教会に行っているような気分で。ギリシャ哲学から始まってカントの「実践理性批判」も「純粋理性批判」も読破しましたよ。いや、理解したかどうかはわからない。心に残るのは「人間には理解しがたい神秘的なもの、それは天に輝く星と内なる道徳律だ」というあの言葉ですね。後年、中曽根康弘さんがよく引用しました。ゼミはケインズの「一般理論」を原書でやりました。これは林文彦という先生でした。文友会という会があって、その同窓会長は楠田実さん。佐藤内閣の首席秘書官で、このゼミの第1期生です。かなり人気のあるゼミでね。内容はすっかり忘れましたけど。
  
早野氏 それでケインジアンになったというわけでもないわけですね。
山崎拓 いや、やっぱりケインジアンでしょうね。政調会長時代はずっと公共事業の効用を主張しましたからね。(笑)
  
早野氏 国会で宮沢喜一蔵相が「みんなケインズ批判するけど、誰も読んでない。」と開き直っていた。あの人は読んでいるでしょう、もちろん。もう一人読んでる人がいたわけだな、ここに。
山崎拓 まあ、読み方は向こうはずっと奥深いでしょうけど。
  
早野氏 ブリヂストンに就職したのは。
山崎拓 私は炭鉱の跡継ぎをすると決めておったのですが、炭鉱が銀行管理になってしまってあきらめて。ブリヂストン、たまたま親父の同級生が重役をやっていたものですから、こないかと言われて、何気なく行った感じです。私も実業家たらんとしたわけで、サラリーマンじゃ志と違うと思っておったんですが、まあ、就職難の時代だったので、しばらくこれでいくかと。入ったときから「俺は長くいるつもりはない。」と公言して、ひんしゅく買っていました。
  
早野氏 政治を志したのは。
山崎拓 当時、総理府が青年海外派遣事業というのを始めたんですね、皇太子ご成婚記念で。姉が申し込んだら年齢制限にひっかかってだめだと言われ、私の名前を書いて帰ったわけです。私が試験をおもしろ半分で受けたところが、そんな難しくないから合格したわけですね。ただ、3ヶ月行くんです。
  
早野氏 サラリーマンじゃ無理だ。
山崎拓 会社から叱られたわけですよ。「何で勝手なことするか。」と。それで私は法務大臣をしていた石井光次郎さんのところへ行きました。ブリヂストンの一族だったんですね。事情を話すと、そこでぱっと電話して、すぐ決まり。まだ閨閥の強い会社だった。
  
早野氏 政治工作、うまくいった。
山崎拓 そのかわり課長は怒りましたけどね。で、昭和37年の8月から11月にかけてヨーロッパに行ったんですが、1ヶ月間は船です。香港、サイゴン、シンガポール、ボンベイ、コロンボ、スエズ運河を渡ってカイロに行き、マルセイユに上陸して、それから2ヶ月間、ヨーロッパの国々を8カ国。
  
早野氏 それは充実しているな。
山崎拓 アジアは1人当たりのGNPが百ドル、日本が千ドル、ヨーロッパが3千ドルといった感じでしたね。それはどこから来ているのか。ヨーロッパは社会資本の整備がすごく進んでいた。パブリックセクターですから、それは政治ですね。それと徹底した民主主義。競争の原理が働くし、創意工夫も働くと実感した。そこで政治家になろうと考えましたよ。帰国したら、しばらくしてハンブルク支店への転勤を命ぜられたわけです。山崎はいろいろなことをしでかすから危ないと、そこで塩漬けにするに違いない。これはいかんと、やめちゃった。
  
早野氏 玄洋社の系統といえば、国権主義とアジア主義です。そういう系譜の思想を受け継いでの政治へのチャレンジということでは・・・・。
山崎拓 ヨーロッパの先進性を見て、どうしてこんなにアジアの遅れがひどいのかと身につまされました。まだ東京オリンピックの前でしたから。大アジア主義、アジアはひとつということを玄洋社の頭山満は口癖のように言っておった。それは侵略指向ということになったんですけど。でもまたアジアの経済発展のなかで、アジアはひとつ、そういう時代が来つつあると思うんです。
  
早野氏 衆院選挙は、最初は落選して、47年に当選ですよね。
山崎拓 そのころ城山三郎さんの「落日燃ゆ」が出まして。
  
早野氏 広田弘毅の物語ですね。
山崎拓 政治家になって、一番印象が強かったですね。広田弘毅は昭和11年、私が生まれた年に総理大臣になったんです。私が今の福岡2区という選挙区を選びましたのも、広田弘毅、中野正剛、緒方竹虎、全部、現在の2区だからなんです。私の父親、女房の父親も、それから祖父山崎和三郎も、全部大名小学校という学校なんです。広田弘毅もそうです。黒田藩の大名町なんです。
  
早野氏 余計に印象深いですね。
山崎拓 誰が中に入ったか、僕は城山さんにわざわざ会ったんですよその本が出ました直後に。そこで聞いたんですが、城山さんは広田弘毅の娘さんに取材をしたそうです。でも会ってくれないと。あんまり城山さんが熱心なので、「ふすま越しなら会いましょう。顔を合わせることはできません。」と言われ、ふすま越しに話をした。それはなぜか。「自分たちは両親の夫婦愛の思い出だけに生きている。人に晒したら、その光彩を失う。生きていく気力を失う気がするので勘弁してくれ。」と言われたと。
  
早野氏 なるほど。
山崎拓 広田弘毅が十三階段を上れるように、静子夫人は先に自害したわけです。私が先に行っているから取り乱さずに絞首台に上がれと。
  
早野氏 東京裁判で、デス・バイ・ハンギングの唯一の文官ですからね。
山崎拓 (シビリアンコントロールの責任を問われて)天皇陛下に累を及ぼすなんて考えられない、自分が死ぬ以外にないと、一切の弁明をせずに絞首台の露と消えた。「あなた、堂々とね。私は先に行って待っています。」という思いで自害した静子夫人のこと、その夫婦愛を娘たちは心に秘めていたかったのでしょうね。
  
早野氏 それが、ふすま越しということだったわけですね。
山崎拓 うん、最後の妥協点が。それを城山さんから伺ったんです。忘れられませんね。
  
対談後記   
 ボタ山、重工業地帯、そして玄海灘。祗園太鼓、山笠祭り、黒田節・・・・。   
福岡のそんな風景の中から、頭山満の玄洋社、内田良平の黒龍会など大陸雄飛を夢見る政治団体は生まれた。   
 山崎拓氏はその血を受け継ぎながら、何を追い求めようとしているのか、中曽根康弘氏の下から、ともあれ山崎派を旗揚げしたところである。   
修猷館の伝統、そして「落日燃ゆ」の気概を持ち続ける政治家であってほしい。(早野氏)    
  
  
誌「一冊の本」1999年4月号 朝日新聞社発行より
 
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