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月刊国会ニュース 「憲法を論ぜざるは国会議員にあらず」
2001年2月号  月刊国会ニュース記事掲載
ジャーナリスト 照井 卿史  
 
 二十世紀最後の年の暮れも押し迫った十二月六日、自民党の稲葉大和衆議院議員のシンポジウムと懇親会があったので、出席した。「加藤政局」直後だけに、山崎拓元政調会長が盟友の加藤紘一元幹事長について、どう話すのか、出席者の最大の関心となっていた。  
 
 そこで、政治評論家の岩見隆夫氏も、「山崎さんはどうして加藤さんについていったのですか」と聞いた。 山崎氏は「当選二回の時、『あなたの政治的ライバルは』という質問に対し、彼だけが『山崎拓』と書いてくれた。数ある同期生の中で、彼だけが私を評価してくれたことに、終生の恩義が生じた。士は己を知る者のために死すというではないか」と答えた。  
 
山崎拓氏がますます好きになった  
 そして、「私は悪人だが、彼はたぐいまれなる善人」であり、「禅譲をよしとしない。昔で言えば、一高・東大の坊ちゃんだが、気骨のあることを言う」が、「ただ、弱気な点があって、浪花節的について来いなどとは恥ずかしがり屋で言えなかった」と加藤氏をかばったのである。 ずっと聞いていた保岡興治前法相は、懇親会で挨拶し、「今日私は、山崎会長がますます好きになった」と冒頭感涙にむせぶように話し出した。  
 
 実は私も、「山崎氏がますます好きになった」一人である。その理由の第一は、その人格と信義にある。識者は、山崎氏の発言を「任侠ものの映画でもあるまいに」と冷笑するかもしれない。しかし、自民党の渡辺喜美衆議院議員に「自民党の問題体質は相変わらずだね。伝聞の話だけど、主流派の切り崩し工作はすさまじかったらしいね。  
 
ポストとカネ、あるいは選挙での対抗馬の擁立などを条件に一本釣りを図った。ある無所属代議士には、『自民党に入党したら、契約金一億円を払う』なんて条件もだされたっていうじゃない。・・・・・・。どっちにしても、こういう話が出ること自体、世も末だわな」(『週刊朝日』十二月八日付)、とまで言わせた権謀術数渦巻く中で、利害損得でなく信義と友情を貫くことは、至難の業である。 山崎氏は、「尊敬に値する国家の尊厳は、人格と同様、一朝一夕にできるものではない。国民性が狭量で閉鎖的、自分に甘く、強いものには弱いが、自分より弱いものにはきついというものであれば、国家の品格も同様なものとなるであろう」(『二〇一〇年日本実現』ダイヤモンド社)と考え、実行している。  
 
 私は、これと正反対の政治家を数多く見、聞いてきた。それだけに、「国家の品格」を唱える山崎氏の人格の言行一致が光るのである。  
 新聞社が将来性のある若手政治家を取り上げる連載をした時、それぞれ自らの将来のライバルを書く欄があった。そこに加藤氏だけが、「山崎拓」と書いてくれたそのことに、ずっと一貫して友情のかけがえのなさを感じる純粋さに、私は、感じ入ったのである。  
 
 第二に、山崎氏の憲法観である。  
 山崎氏は、「加藤政局」のさなか、自由党の小沢一郎党首と会談したことを認めた。しかし、政局については一切話をせず、お互いに憲法について意見交換した。と述べた。  
山崎氏は、「新しい世紀に、新しい国家目標はあるのか」と問い、「わが国の国防政策上の関心が既に容認されている個別的自衛権の問題から集団的自衛権のほうに大きく移っている」として、「集団的自衛権の問題は、政府の解釈の変更によらずして、集団的自衛権の行使を認めるべき必要性を堂々と国民に訴えて合意を形成し、憲法改正手続きによって決着すべきものである」との見解を堂々と表明してきた。  
 
 一九九八年十一月三十日、山崎氏は、主宰する「近未来研究会」に所属する旧渡辺派議員を率いて同派を離脱し、山崎派を旗揚げした。私はこのパーティーに出席し、山崎氏の講演での憲法論を傾聴したのである。  
 
ここでも山崎氏は、「国連憲章で認められている集団的自衛権の行使については、憲法解釈の拡大変更(解釈憲法)の手法によらず、たとえ時間がかかっても正攻法で、憲法九条改正によって認められるよう目指すべきだ。解釈改憲の繰り返しでは、国家基本法である憲法の重心が浮き、安定性を欠くことになるだけでなく、いたずらに日本国民や外国の不信を招くことにつながるからだ。国民の理解と認識が一定のレベルに達し、世論が成熟したとき、政治的リーダーシップを発揮し、憲法改正を図りたい」と強調した。  
 
派閥とは自民党総裁選の自派の領袖(会長)に投票する代わりに、カネ、ポスト、選挙での支援を受ける議員達の集団とされてきた。しかし、山崎氏は、新たな議員集団は「政策提言を実行に移すための行動集団」だと言明し、パーティー出席者に、前掲書を配布し、「政治宣言 二〇一〇年、目指すべき近未来」「政策提言私が描く国家像」を提示したのである。 このパーティーで、旧小渕会長の綿貫民輔元幹事長は、「旧小渕派は九十人を超える大集団であり、山崎氏が、首相になるときには味方も必要だ」と山崎氏の出方をけん制した。  
 
 しかし、山崎氏は翌九十九年九月の自民党総裁選に立候補した。新聞などでは、現役首相に対抗して争われる総裁選は、七八年に大平正芳幹事長が、福田越夫首相に挑んで以来、二十一年ぶりだとか、加藤、山崎両氏が、自自公連立政権づくりに批判を強めていることから、最大の争点は自自公連立をめぐる路線論争だと述べていた。  
 
 自民党は五五年自主憲法制定を党是として発足したが、憲法論議が活発だったのは当初だけで、その後、長く党内で本格的に議論されることはなかった。  
 
 山崎氏は、「自民党総裁選挙史上初めて明確に憲法改正を公約として訴え、憲法について長い間議論することさえもタブー視されてきた政界の空気を変える一端となった」(近未来政治研究会の保岡・新憲法研究会座長)。  
 
 「国会にも憲法の調査会が設立されるということなので、その中での議論を見守る」としか発言できなかった小渕恵三首相(当時)に対し、憲法論を通じて二十一世紀のわが国のあるべき姿を明示した山崎氏こそ、特筆大書に価するのである。  
 
 江藤隆美(江藤・亀井派)会長は百十三票の加藤氏、五十一票の山崎氏に対し、「無駄な選挙をやったと思う。百票が目標なら最初から出なければいい」と批判したが、これこそ数の論理だけの暴論である。民主主義のルールや国会議員の責務の何たるかの自覚がないのである。  
 今回の「加藤政局」でも、数の決戦であればこそ、多くの同志を確保するのが常識ではないかなどと、「腰砕けの反乱」と分析する議論が多かった。  
 
「背骨の通った」憲法論は小沢・山崎両氏だけ  
 だが、加藤、山崎両氏は、自民党執行部の景気優先策に抗して、財政危機の解決こそ、今日最重要の課題であると提起してきた。財政構造改革法の見直しに端を発する財政構造改革の挫折こそが、日本経済の低迷を招来したと唱えてきた。  
 だからこそ、二〇〇〇年度補正予算案について、亀井静香・自民党政調会長が、早々と「事業規模十兆円超」の大盤振る舞い構想を打ち出したのに対し、山崎氏は、九月二日の講演で、「こんな規模は必要ない。財政再建を視野に入れた財政運営をすべき時期に入っている」と批判したのである。  
 
 加藤・山崎両氏は、「財政危機こそ国難である」との認識に立ったからこそ、私は、反執行部の態度を鮮明にしたものと理解している。従って、山崎氏の行動は、「終生の恩義」だけでなく政策面でも整合していたことを看過してはならないのである。  
 
 こうした経緯があればこそ、私は、この政局のさなかに山崎、小沢両氏が、憲法について意見交換したことを強調しておきたいのである。  
 小沢氏は、自民党の「国際社会における日本の役割に関する特別調査会」の会長として、九二年二月二十日、「安全保障に関する答申案」をまとめた。答申原案は、現行憲法の下での自衛隊の「国連軍」参加を明確に打ち出し、自衛のための最小限度の実力行使しか認めてこなかった従来の憲法九条の政府解釈を変更するよう求めた。以来、安全保障に関する日本のあり方、役割について、憲法論を展開してきた。  
 
 そして、昨年十二月二日、自由党は、憲法改正の指針「新しい憲法を創る基本方針」の素案をまとめた。政党が具体的な改憲の枠組みをまとめたのは初めてである。  
 
 一方、山崎会長の「近未来政治研究会」は、昨年五月九日、政策セミナーを開催したので、私も出席した。この日『二十世紀 国のかたちを求めて 論憲集』を発表し、出席者全員に配布された。  
 この冊子は、「国民が誇りにできる日本の良さを示す新しい憲法を創り出して、未来の道を切り開くため、メンバー議員各々の憲法に対する考え方をまとめた」ものである。  
 
 この「あとがき」で、山崎氏は、母校の福岡県立修猷館高校創立七十周年記念式典で、大先輩の故緒方竹虎氏が、記念講話された際の速記録から、次の部分を紹介していた(当時の憲法起草にあたっていた松本丞治博士が、緒方氏に話されたこと)。  
 
 「美濃部達吉博士と申しますれば、戦争中あるいは戦前におきまして天皇機関説の支持者であるということで、かなり批判をされた博士でありますが、私は、美濃部博士ほど背骨の通った学者はほとんど外になかったと考えます。この美濃部博士は色々な圧迫があったにもかかわらず、最後まで枢密院において絶対にその憲法の草案に賛成できないとして、最後の採決にあたりましても、博士だけは起立しなかった」  
 
 このくだりを読んで私は、共鳴したのである。本誌の昨年二月号に私は、「美濃部達吉の天皇を機関だと説明する学説は、一九三五(昭和十)年、軍部、政治家、学者などから国体に反するとして激しく攻撃され、それを内容とする著書の発売・頒布を政府から禁止された(機関説事件)。当時の上杉慎吉の国体憲法論など時勢におもねた説が横行し、それが戦後一転して国体を忌わしいものにしてしまったからである。しかし、美濃部だけは変わらなかった。国体を歴史的に正しく認識していたからである。美濃部の同年二月二十六日の貴族院での『一身上の弁明』が、雄弁に物語っている」、としてその弁明を紹介し、「戦前から、そして戦後の新憲法制定過程における美濃部の言動こそ、私は高く評価する」と述べた直後だったからである。  
 
 それだけに、山崎氏が、「背骨の通った学者」に言及しながら、「私の憲法改正への志向は、新世紀・新時代における新しい“国のかたち”を国家基本法たる憲法の中で示すべきだという考え方によって、緒方氏の憲法改正への遺志を発展的に受け継ぎたいという存念に基づくものである」と宣言したことがうれしかったのである。  
 
 ところで、自由民権運動の理論的指導者・中江兆民(一八四七〜一九〇一)は、二十世紀を迎えるにあたり、次のように強調された(『警世放言』松邑三松堂)。  
 
 「衆議院議員の一大義務とは何ぞや。憲法について意見を陳述することこれなり。憲法なるものは国家の根幹なり。基礎なり。ただ、この根幹あり基礎あるがために、国家始めて国家と称すべく、人民始めて人民と称すべし。・・・・それ諸般の法律を議定することは、もとより大事なり。しかれども国の根幹たる憲法について一言を出すを得ざるにおいては、その国会は真の国会に非ずして、行政の一諮詢官たるのみ」  
 日本は当時の欧米の最も優れた政治制度や文化などを研究、吸収し、自力で憲法を作り、それを誇りとした。  
 
 司馬遼太郎の『「明治」という国家』によれば、自由民権は「愛国」として始まり、その愛国は、「国民国家において国民的連帯感のもとにうまれる高度なもの」だという。だから明治憲法を、「国家と一体感をもち、国家の運命を自分できめうる立場をもつという存在になれる」と国民は喜んで迎え入れた。  
 
 戦後、明治憲法は否定されたが、司馬のように、積極的ないい面を評価する必要がある。私も、司馬の「憲法の中身は日本の歴史的所産だ」という説に賛成である。司馬の明治憲法観から、兆民の「衆議院議員の一大義務」説がよく理解できたのである。  
 兆民の「一大義務」のとおり、帝国議会は、本会議中心主義、演説中心主義で、大いに憲法を論じ、斉藤隆夫の反軍演説など、数多くの名演説が生れた。  
 
 ところが、二十世紀最後の年の通常国会では、憲政史上初の野党不在の代表質問が行われるなど、国会における議論、討論は、帝国議会より後退してしまった。国会はたんなる「法案可決機関」に墜し、議会制民主主義は形骸化してしまった。一世紀前の兆民の警世のことばが、今日の政治の正鵠を射るようでは情けないではないか。  
 
 現在の国会議員の中で、堂々と「背骨の通った」憲法論を主唱してきたのは、山崎、小沢の両氏だけではないだろうか。  
 
 山崎氏は、自民党総裁選史上初めて明確に憲法改正を公約として訴え、同派所属の国会議員に憲法についての考えをまとめさせている。そして一月四日、「五月三日の憲法記念日には、改正試案を誰よりも先に問いたい」と表明した。期待するところ大である。  
 
 小沢氏は、「国および国民のあり方」として「現憲法の基本原理を継承、発展させ、日本の文化・伝統を尊重、自由で創造性あふれ、思いやりのある自立国家日本をつくる」と発表した。  
 
 山崎、小沢両氏の安全保障などでの意見の相違はあるものの、二十一世紀に入った日本を、どういう国のかたちにするかの「愛国」には通じるものがある。  
 
 自主憲法制定が党是だった自民党は、自社さ政権時代の九五年「国民と共に議論を進める」との「新宣言」で改憲色を薄めた。ところが、九九年一月、改憲に積極的な自由党との連立で、憲法問題を論議する常任委員会設置を求める機運が高まったものの、「常任委は改憲に直結する」との民主、公明両党の懸念に配慮して、議案提出権のない調査会で合意した。「背骨が通ってない」のである。  
五年をめどとする調査期間で何をどうするのか明確でない。  
 
 憲法を論じることは、国のあり方を見つめ直すことでもある。兆民の「一大義務」のように、憲法を論ぜざるは国会議員ではないのである。参考人の話を聞くよりも、全国会議員が、憲法をどう考え、何を真剣な政治課題としているか、各自に語らせ、国民の前に明らかにすべきではないだろうか。  
 
2001年2月号  月刊国会ニュースより
 
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