Fight!TAKU -YAMASAKI TAKU OFFICIAL WEBSITE トップページへご意見・ご感想リンク集
お知らせプロフィール政策と出版物活動レポート山崎拓の主張「拓」関連記事憲法改正ビデオメッセージ
FUTURE OF JAPAN活動レポート
月刊カレント 男を上げた平成の「山崎”刑部吉継”」
2001年1月号  月刊カレント記事掲載
”加藤政局を関が原に譬えれば―”
政治評論家  増山 栄太郎

「加藤政局」は、冬の突風のように永田町を吹きぬけただけで終わった。だが、これを汗臭い男たちの人間ドラマと見れば、意外な側面が浮かんでくる。今回の加藤紘一元自民党幹事長らの動きを『平成版・関ヶ原合戦』に譬えたのは評論家・佐々淳行(産経十二月三日付「正論」欄)だ。なかなかうまい譬えなので、ここでは、それを借用しつつ、もう少し敷衍してみたい。(敬称略)

生き恥をさらした加藤だが・・・・

もちろん、『平成版・関ヶ原』の主役は加藤"三成"だ。本物の石田治部三成は、天下分け目の合戦で、東軍に一敗地にまみれ、京都・三条河原で打ち首になった。平成の三成は、野中"家康"の「傷口は小さく、心は広く」の一言で首の皮一枚でつながった。だが、加藤に対する世間の期待が大きかっただけに、その行動に対する批判は中傷から罵詈雑言に至るまで厳しいものがある。佐々は、前述のコラムで、三条河原で加藤の罪状糾弾の高札の掲げるならば、次の四点だという。

一、補正予算成立直前に野党と組み、倒閣をはかり、憲政史上類例をみない政争を引き起こし、世間を騒がした罪
二、内外に日本の威信を失墜させ、国民の政治不信を募らせた罪
三、密室政治を声高に批判しながら、自ら密室政治で保身をはかった罪
四、将来有為の、若い人材の多くの政治生命に傷を負わせた罪

至極もっともな指摘だ。その上で佐々は、加藤が敗因を「戦略と準備不足」と述べたことを取り上げ「こんな幼稚なことで、タフな国際社会で日本の総理として難局対処ができるわけがない。総理として不適格だ」と烙印を押している。まさに生き恥をさらすことはこのことだ。ここで露呈されたのは加藤に限らず、二世議員のひ弱さだ。

「貴殿、才覚余れども一大事の所不足なり」と三成に諌言したのは大谷刑部吉継だ(鳴瀬速夫著『戦国武将のひとこと』より)。加藤も「才覚余れる」人だ。だからこそ、大平元首相に寵愛され、第一次大平内閣で当選二回で官房副長官に抜擢された。

それからトントン拍子で政界出世階段を駆け上がった。そして「ポスト森の本命」と言われるまでになった。だが、ここぞという「一大事」のときの勇気と決断に欠ける。大谷刑部吉継の三成への諫言はこの点を衝いたのだが、その言葉はそっくり加藤に当てはまる。だが、加藤が総理として不適格かどうかは、即断するのはまだ早過ぎる。加藤が政界入りして初めて味わう「失意と屈辱」の"針の筵"をどう耐え抜くことができるか。それを見届けてからでも遅くはないからだ。


友情に殉じた敗軍の将
加藤に引き換え、敗軍の将ながら、男を上げたのは山崎拓元政調会長だ。この点で山崎は、前述の鳴瀬著によれば、吉継と三成は、友情で結ばれた刎頚の仲だった。とかく才に溺れ、不遜な態度のでる三成を、吉継はよくたしなめた。関ヶ原合戦でも、吉継はその無謀さを指摘し、勝算ないことを告げ、再三、思いとどまるよう説得した。

だが、三成の決意は固く、一旦、吉継は三成に決別したものの、友誼に負けて西軍に加わる。大谷軍の勇猛果敢な闘いは東軍の総大将、家康の心胆を寒むからしめた。だが、戦い利あらず、吉継は討ち死にしたが、部下は最後の一兵まで奮戦した。吉継の家臣に対する慈心と統率力の見事さを実証した。

今回の「加藤政局」での山崎の動きを友情とのみ見るのは甘すぎるかもしれない。「嫉妬と打算の海」といわれる永田町のことだ。山崎が、加藤に加担するには、それなりの計算と野望があったはずだ。山崎の野望とは何か。それは「加藤政権の下での幹事長。そして五年後に政権を目指す」ことだ。五年後にランナー、山崎にも日が当たるという狙いからだ。そのためには、一刻も早く加藤を総理の座に担ぎ上げなければならない。

山崎と加藤は、小泉純一郎元郵政相を加えて、YKKと称されているが、いずれも生い立ち、肌合いが違う。とりわけ山崎と加藤の取り合わせは異色だ。県議のたたき上げで武闘派の山崎に比べ、加藤は二世議員で、エリート官僚出身だ。山崎が政治生命を賭ける改憲についても、加藤は護憲派に近い。にもかかわらず、二人の盟友関係がこれほど長く続いたのは永田町でも珍しい。今回の一件で、小泉は森陣営に就いて二人と袂を分かったが、山崎は終始、加藤と行動を共にした。もちろん、山崎には成算はあった。それは加藤、山崎両軍が一致して党内を揺すぶれば、森首相は自発的退陣を余儀なくせれる。そうなれば、戦わずとも加藤政権が転がり込むという目算だ。

だが、山崎の読み違いは、野中幹事長を中心とする主流派の反撃が予想以上に迅速だったことだ。この点は、三成挙兵の報に、上杉討伐の軍を急遽反転させた家康の果断な処置に似ている。もう一つは十一月九日の政治評論家との会合で、加藤がひとり舞い上がって「野党提出の内閣不信任案に賛成する」と"禁じ手"を早くも言い出してしまったことだ。ただ、山崎が見事だったのはいざ、本番突入というときに自派を固め切ったことだ。山崎派十九人のうち脱落者は保岡興治(鹿児島一区)と稲葉大和(新潟三区)の二人だが、保岡が当時法相だったことを考えれば、実際は一人といってよい。これに引き換え、加藤派は四十五人中二十四人の脱落者を出した。ここに派閥のリーダーの力量の差が歴然として表れた。

「百人の烏合の衆よりも十人の精兵がいれば天下は取れる」と言ったのは小沢一郎自由党党首だが、山崎はここで一挙に男を上げた。かつて秀吉は、吉継を「百万の軍兵の軍配を預けたい男」と評したというが、いま永田町で「平成の山崎刑部吉継」の評価は高い。いつも加藤の後塵を拝する形の山崎だが、ここへきて「ひょとすると加藤を追い越し、総裁選レースの前面に躍り出ることも」と囁かれている。永田町は有為転変の世界だ。今、山崎拓は敗軍の将だが、光が当たるのは案外近いかも知れない。


増山 栄太郎氏
現在時事総合研究所客員究員・政治評論家

1930年茨城県生まれ。1953年早稲田大学卒業。
同年4月 < http://www.jiji.co.jp/ > 時事通信社入社。同社の政治部、パリ特派
員、ブリュッセル特派員、ニューヨーク総局長、編集局次長をを歴任。
1986年同社取締役。1990年時事総合研究所専務。
1994年より現職、評論活動に入る。
増山栄太郎ホームページは こちら
メールアドレス masuyama@ca.mbn.or.jp
 
このページの先頭へ